気比庄(読み)けひのしよう

日本歴史地名大系 「気比庄」の解説

気比庄
けひのしよう

気比水上けひみなかみ庄ともいう。円山まるやま川河口付近にあった庄園で、「但馬考」は右岸の気比・田結たい左岸小島おしま瀬戸せと津居山ついやまおよび湯島ゆしま桃島ももしま(現城崎町)の七村を「気比庄と云」としている。

寛喜三年(一二三一)四月二五日付の後堀河天皇宣旨(門葉記)に「但馬国壱所 気比水上庄」とみえ、同庄等五庄が比丘尼観如の譲与によって無品尊守親王家門跡領として認められている。尊守は土御門天皇皇子。観如の俗姓はわからないが、気比水上庄等を私領として相伝しており、これを「養君」の尊守に譲っているから、しかるべき貴族の女であろう。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には「気比庄 五十町一反弐百九十分」とみえ、「白川千躰阿弥陀堂領」「領家左兵衛督局」「地頭太田太郎左衛門尉政綱跡」の注記がある。気比庄は四村からなり、それぞれ地頭が記される。すなわち気比村三四町三反二五〇歩、地頭太田左衛門太郎政頼、上山村四町三反三五〇歩、地頭藤蔵人重直、立野村一一町二反五〇歩、地頭太田左衛門次郎政員、本庄村畠六町四反、地頭太田左衛門三郎政光である。なお庄田の内訳は記されていない。本家の「白川千躰阿弥陀堂」は、この名で知られる著名な寺や堂はないが、京都洛東白川しらかわの地に院政期に建てられた天皇家御願寺であろう。したがって当庄は皇室領庄園であったとみられる。領家の左兵衛督局は未詳。前述の尼観如には「所生之長女」があったというから(前掲宣旨)、その女かもしれない。そして尼観如から尊守親王に譲ったのは領家職であろう。もと地頭の太田政綱は守護太田政頼の父で、弘安四年没。その跡が四村に分けられたわけであるが、長男政頼が地頭職をもつ気比村は圧倒的に大きい。なお政頼はほかに朝来あさご伊由いゆ(現朝来町)出石いずし弘原ひろはら(現出石町)地頭、下鶴井しもつるい庄の公文を兼ねている。立野村の地頭は次男、本庄村地頭は三男であるが、上山村の地頭も政綱の縁者であろう。政綱の跡を兄弟等で分割しているところをみると、気比庄は太田政綱家の根本所領であろう。太田氏にはほかに出石郷安美あなみ郷・下里しもざと(現出石町)の地頭職を分割する一族がおり、ともに鎌倉初期の守護太田昌明の子孫と思われるが、正確な系譜は未詳。なお上山村は現城崎町南端に地名(大字)があるが、これを気比庄上山村とみると、気比庄は「但馬考」の比定地よりもさらに円山川上流部に拡大することになる。


気比庄
けひのしよう

現敦賀市の旧しようノ川以東、気比社周辺地域を荘域としたと思われる荘園

建長二年(一二五〇)一一月日付九条道家惣処分状(九条家文書)に、最勝金剛さいしようこんごう(跡地は現京都市東山区)領のうち八条禅尼寄進領として、越前国気比庄とみえる。これにより、当庄の本所職が藤原良輔(八条左大臣)から後家禅尼の手を経て最勝金剛院に、そしてさらに九条道家の所管に入った経過をたどることができる。その後、建暦二年(一二一二)九月日付の越前気比宮政所作田所当米等注進状(越前気比宮社伝旧記)に「気比庄作田四十三町四十歩内承元三年実検定」とみえ内訳を記すが、「除四丁八反」のうちには鎮守林宮祭官料田・釈迦寺仏供田・大祝田・本社御酒田・同二月御酒田・井料田・八月御祭饗料田・公文給田がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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