基肄城(読み)キイジョウ

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

基肄城

663年の白村江の戦いに敗れた日本が唐・新羅軍の侵攻に備え、665年に基山町の基山(きざん)(404メートル)に築造。周囲4キロにわたり土塁と石垣を巡らした。武器・食料の倉庫跡とされる礎石群や、石垣の水門などの遺構が確認されている。同時期に福岡県側に「大野城」「水城」も造られた。

(2015-10-02 朝日新聞 朝刊 佐賀全県・1地方)

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百科事典マイペディアの解説

基肄城【きいじょう】

現佐賀県基山(きやま)町の基山に築かれた古代の朝鮮式山城で,一部は福岡県筑紫野市にかかる。椽城とも記される。白村江(はくすきのえ)の戦で大敗した日本軍が,帰国後唐・新羅連合軍の来寇に備え,664年大宰府前面に水城(みずき)(現福岡県太宰府市)を築き,665年百済からの亡命貴族憶礼福留・四比福夫に命じて大野城(現太宰府市)とともに築城させた。大野城・水城・基肄城を結ぶ線は大宰府防御の羅城をなしており,当城は有明海方面に対する拠点であったといわれる。基山の西峰と東峰の間を北は築堤によって結び,南は石塁で連結している。尾根上には一周約4kmの土塁がめぐらされている。城門や水門などの遺構もある。また城内では30棟以上の礎石群が確認されており,倉庫跡と推定される。国指定特別史跡。
→関連項目大野城金田城

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世界大百科事典 第2版の解説

きいじょう【基肄城】

椽城とも書かれる。現佐賀県三養基郡基山町の基山(坊住山,標高404m)を中心に築かれた古代の朝鮮式山城で,一部は福岡県筑紫野市にかかる。1954年特別史跡に指定。665年(天智4)白村江敗戦後の国防態勢整備の一環として,亡命百済貴族の憶礼福留,四比福夫によって大野城とともに築かれた。大野城が大宰府の北方防御拠点であるのに対し,大宰府の南方約8kmに位置して筑後平野を一望できる当城は有明海方面に対する拠点であったとされる。

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大辞林 第三版の解説

きいじょう【基肄城】

今の佐賀県三養基みやき郡基山きやま町から福岡県筑紫野市にかけてあった朝鮮式山城。665年、大宰府だざいふの防備のために、北側の大野城とともに造られた。記夷城。椽城きじよう

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

基肄城
きいじょう

佐賀県三養基(みやき)郡基山(きやま)町および福岡県筑紫野(ちくしの)市にまたがって所在する古代の山城(やまじろ)遺跡。椽(き)城とも書く。663年(天智天皇2)百済(くだら)救援のための白村江(はくそんこう)の戦いで、日本が唐・新羅(しらぎ)の連合軍に敗北したのを契機に、大宰府防衛さらには全土防衛の最前線基地として、665年百済系渡来人憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくぶ)によって大野城とともに築かれたいわゆる朝鮮式山城。基山(標高404メートル)を中心に、4.3キロメートルに及ぶ土塁が尾根を巡り、南北に3か所の城門と南辺の谷口に幅1メートル、高さ1.4メートル、長さ10メートルの大規模な水門が設けられている。また1978年(昭和53)の保存管理計画の調査時点までに、土塁内には12群32棟の礎石建物群が確認されている。1954年特別史跡に指定された。[酒寄雅志]
『鏡山猛著『大宰府都城の研究』(1968・風間書房)』

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世界大百科事典内の基肄城の言及

【肥前国】より

…876年(貞観18)に松浦郡の庇羅(ひら),値嘉の2郷を上近,下近の2郷とし,値嘉島として島司郡領を置くとあるが(《三代実録》),《延喜式》《和名抄》にはすでにこの名は見られない。城1所は,基肄城を指すが,白村江(はくそんこう)の大敗の後,百済の遺臣らに大野城とともに築造させたものである。国府は佐嘉郡に置かれたが,《和名抄》には小城郡に国府を記す。…

※「基肄城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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