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椽城とも書かれる。現佐賀県三養基郡基山町の基山(坊住山,標高404m)を中心に築かれた古代の朝鮮式山城で,一部は福岡県筑紫野市にかかる。1954年特別史跡に指定。665年(天智4)白村江敗戦後の国防態勢整備の一環として,亡命百済貴族の憶礼福留,四比福夫によって大野城とともに築かれた。大野城が大宰府の北方防御拠点であるのに対し,大宰府の南方約8kmに位置して筑後平野を一望できる当城は有明海方面に対する拠点であったとされる。いまだ本格的な発掘調査は行われていないが,構造的には大野城と大異なく,稜線上には一周約4kmの土塁がめぐらされ,谷間には石塁が築かれ,城門や水門などの遺構も存する。城内では現在までに6ヵ所で30棟以上の倉庫跡と推定される礎石群が確認され,その多くは大野城と同規格の柱間7尺の3×5間のものであるが,なかには柱間10尺の3×10間のものがあり,長倉とみられている。
執筆者:倉住 靖彦
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佐賀県三養基(みやき)郡基山(きやま)町および福岡県筑紫野(ちくしの)市にまたがって所在する古代の山城(やまじろ)遺跡。椽(き)城とも書く。663年(天智天皇2)百済(くだら)救援のための白村江(はくそんこう)の戦いで、日本が唐・新羅(しらぎ)の連合軍に敗北したのを契機に、大宰府防衛さらには全土防衛の最前線基地として、665年百済系渡来人憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくぶ)によって大野城とともに築かれたいわゆる朝鮮式山城。基山(標高404メートル)を中心に、4.3キロメートルに及ぶ土塁が尾根を巡り、南北に3か所の城門と南辺の谷口に幅1メートル、高さ1.4メートル、長さ10メートルの大規模な水門が設けられている。また1978年(昭和53)の保存管理計画の調査時点までに、土塁内には12群32棟の礎石建物群が確認されている。1954年特別史跡に指定された。
[酒寄雅志]
『鏡山猛著『大宰府都城の研究』(1968・風間書房)』
椽城・記夷城とも。佐賀県基山(きやま)町と福岡県筑紫野市にまたがる朝鮮式山城。白村江(はくそんこう)敗戦後の国際関係の緊迫化のなかで,665年(天智4)亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)・四比福夫(しひふくぶ)らの指揮のもとに大野城と同時に築造された。標高400m前後の基山と坊主山の2峰にまたがって築かれた。土塁・石垣の総延長は約4.3km,三つの門が知られ,北帝門付近で土塁は二重になっていた。約76ヘクタールの城内には7カ所,計40棟以上の建物跡が確認された。基肄城内の倉庫に蓄えられていた稲穀を筑前・筑後・肥前・肥後4国に班給することを命じる木簡が大宰府跡から出土した。城の南東約2kmに関連施設らしい関屋土塁・塔れぎ土塁がある。城跡は国特別史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…876年(貞観18)に松浦郡の庇羅(ひら),値嘉の2郷を上近,下近の2郷とし,値嘉島として島司郡領を置くとあるが(《三代実録》),《延喜式》《和名抄》にはすでにこの名は見られない。城1所は,基肄城を指すが,白村江(はくそんこう)の大敗の後,百済の遺臣らに大野城とともに築造させたものである。国府は佐嘉郡に置かれたが,《和名抄》には小城郡に国府を記す。…
※「基肄城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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