水無村(読み)みずなしむら

日本歴史地名大系 「水無村」の解説

水無村
みずなしむら

[現在地名]利賀村水無

利賀川最上流の村で、同川沿いに南下してきた利賀道(羽根道)は、当地から飛越国境ののたの峠を越えて飛騨国羽根はね(現岐阜県河合村)へ向かう。この利賀道について「三州測量図籍」に「利賀谷往来飛州境迄道筋」として「大勘場村より水無村まで二里一〇町四〇間、水無村よりノタノ尾峠まで二七町五〇間、越中飛州境、羽根村道」とあり、峠について「三州旧蹟志」は「水無村と飛州羽根村山境、但御国と飛州と御境」と記す。付近一帯の山は加賀藩の鷹巣山になっていて、入山は禁じられていた(祖山組御鷹巣原所付之覚「十村宅左衛門覚書」寿川区有文書)


水無村
みずなしむら

[現在地名]田島町水無

田島村の南、田辺たべ村の西の水無川中流西岸に位置し、村名は川名に由来する。水無川は礫層が厚く、通常は伏流水となり流水がみられないことからの称(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録の段階では、栗生沢くりゆうざわ村とともに「小屋」(高二四七石余)のうちに含まれていたとみられる。南山御蔵入領田島組に属する。貞享二年(一六八五)の「長江庄郷村地方風俗帳」に村名がみえ、端村として渡実わたざね隔沢へたざわ多模沢たもざわがある。


水無村
みずなしむら

[現在地名]阿仁町水無

北流する阿仁川の上流域、九両きゆうりよう(五六二メートル)の西北麓に位置し、阿仁鉱山の入口にあたる。「梅津政景日記」によれば慶長一九年(一六一四)八月四日条に「慶長拾九年阿仁金山御米為登候請取払、野城より小淵・かざはり・水なしまての舟賃共に算用」とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に三梨六六石とみえ、近世中期以後荒瀬あらせ村枝郷となる萱草かやくさ・武(伏か)影・可笑内おかしない常陸内ひたちないも「三梨ノ内」となっている。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には「元来湯口内村露熊村三ケ村一名にて民家百卅軒。郡村改水無村村名改、二ケ村は支郷と成る」とあり、また枝郷として新町しんまち民家四七軒を記載する。文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」では高五〇石で、家二〇〇戸。


水無村
みずなしむら

[現在地名]今市市水無

南を赤堀あかほり川が南東へ流れ、西は森友もりとも村。河内かわち郡に属する。北端を東西に日光街道が通り、集落は街道の南側、耕地はさらに南の赤堀川の段丘斜面にある。同街道大沢おおさわ宿から一二町、今市宿から一里二四町の距離にある(宿村大概帳)。日光山往古社領六十六郷のうちに水無郷があり道義坊領(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。寛永九年(一六三二)水無村一五石余が徳川家光から今市如来によらい寺に寄進された(「徳川家光朱印状」県立図書館蔵)。寛文八年(一六六八)検地が行われ、田六反余・畑屋敷二〇町九反余、名請人は二六人(「検地帳」如来寺文書)


水無村
みずなしむら

[現在地名]井手町大字井手 水無

たま川下流の北岸にある村。東は井手村、西は玉水たまみず宿。

平安時代には当地を古北陸道(のちの奈良街道)南北に通り、街道筋にあった玉井たまのいは歌にも詠まれ、知られていた。永久元年(一一一三)の玄蕃寮牒案(柳原家記録)に、陵戸田の所在する里としてあげられた玉井里は当地に比定される。また古代中世は東大寺領玉井庄の荘域であった。「山州名跡志」によると、古くは当村内を西へと流れていた水無川を南に下げたという。当村の西に玉水宿をつくるためであった。この川は細い小川であったために水無川とよばれ、村名もそれにちなんでつけられたという。

元禄一三年(一七〇〇)山城国郷帳に高三一三・二五七石と記されるが、享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳では井手村と合石されており、京都代官所支配の一千五六石余のうち、水無分は二五五石余となっている。


水無村
みずなしむら

[現在地名]八尾町水無

内名うちみよう村の南西方、大長谷おおながたに川上流左岸にある。飛州二ッ屋村ひしゆうふたつやむら道が通る。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では内名村の川を隔てて二町ほど西にある枝村新田としてみえ、高九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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