江戸時代,寺社の境内や路傍で往来の人に茶を供し,休息させた茶店の称。葉茶を売る葉茶屋と区別して,水茶屋といった。《本朝世事談綺》(1734)は京の祇園社境内の二軒茶屋,《嬉遊笑覧》(1830序)は宇治橋際の通円(つうえん)を,水茶屋の始まりとする。室町時代から見られた一服一銭の茶売が,よしず張りの掛小屋に床几(しようぎ)をしつらえるなどするようになってからの名で,これらがやがて酒食を供するようになって煮売茶屋,料理茶屋となり,店の奥に座敷を設けるところが現れると,それが男女の密会や売春の場となっていった。江戸では宝暦・明和(1751-72)ころから両国,浅草,上野山下などの盛場,あるいは寺社の門前,境内などに水茶屋が続出し,それぞれに笠森お仙のような美人の看板娘を置いて客を吸引した。
→茶店
執筆者:西村 潔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
粗末な掛茶屋からやや発展した街頭の簡易休憩所。店づくりをこぎれいにし、掛行灯(かけあんどん)をかけ、良質の茶を使い、接待の美女を置いた。1740年(元文5)ごろから江戸に現れたという。鈴木春信(はるのぶ)の錦絵(にしきえ)で有名な笠森(かさもり)お仙は水茶屋の接待女であった。自家営業もあったが多くは出茶屋(住居が別になっているもの)で、また恒常的な店と花見時だけのような臨時の店とがあった。
[原島陽一]
…旅客用の茶店と同類のものが,門前町や市街の盛場に進出したのが出茶屋(または掛茶屋)で,よしず張りのなかに茶道具一式を置いて一服一銭の安い茶を飲ませた。これを,葉茶屋と区別するために水茶屋と呼ぶこともあり,後には家構えの店もできた。茶屋に酒を置き,そのさかなの副食物から主食物までを提供するようになるのは自然の推移で,それぞれ煮売(にうり)茶屋,料理茶屋といい,寛文(1661‐73)ごろに始まっている。…
…江戸の小間物問屋の例にみられるように芸者などを呼ぶ場合もあった。こうした集会の場として,繁華地の水茶屋や料理茶屋が発達した。このほか,江戸では諸大名の江戸屋敷に置かれた留守居役(聞番(ぶんばん))が常時寄合を開き,相互の情報交換を行っている。…
※「水茶屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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