江戸中期の浮世絵師。錦絵(にしきえ)の創始者。本姓は穂積(ほづみ)、通称は次郎兵衛、号は思古人。江戸神田(かんだ)白壁町に住み、西村重長(しげなが)の門人と伝えられるが明らかでなく、奥村政信(まさのぶ)、石川豊信(とよのぶ)、鳥居清満(とりいきよみつ)ら江戸の浮世絵師のほか、京都の西川祐信(すけのぶ)の影響も受けて独自の優美可憐(かれん)な美人画様式を確立。生年は1725年(享保10)と推定されているが、その伝記はほとんど不明。活躍期間は1760年(宝暦10)以降の10年間で、ことに最晩年の5年間は人気随一の流行絵師として画壇に君臨した。
1765年(明和2)江戸の好事家(こうずか)の間で流行した絵暦(えごよみ)の競作は、木版多色摺(ずり)の技術を急速に発展・洗練させたが、それを浮世絵の版元が活用するところとなり、錦絵が誕生した。春信はこのおりの絵暦制作に中心的な役割を果たし、錦絵の商品化にも大きく貢献した。好んで扱った主題は、吉原の遊里風俗のほか、青年男女の清純な恋愛や親子兄弟の和やかな情愛など、市井に繰り広げられる日常生活の場景が目だつ。しかもそれらを古典和歌の歌意などと通わせた見立絵(みたてえ)として表すなど、浪漫(ろうまん)的な情趣濃い造形を得意とし、王朝的美意識を追慕するみやびな絵画世界を確立させた。また最晩年には、江戸の風景を絵の背景に写し込み、あるいは笠森稲荷(かさもりいなり)境内の水茶屋の娘かぎ屋お仙など評判の町娘や吉原遊廓(ゆうかく)における全盛の遊女らを実名で扱うなど、実感的な描写にも意欲を示して次代の方向を明確に予告した。錦絵の判式はほとんど中判(約28センチメートル×20センチメートル)に限られ、代表作に『座敷八景』(八枚揃(ぞろい)、1765ころ)、『縁先物語』『雪中相合傘』(いずれも1760年代後半)がある。また『絵本花葛羅(はなかつら)』(1764)、『青楼美人合(あわせ)』(1770)などの絵本にも秀作を残したが、肉筆画は少ない。門人に鈴木春重(はるしげ)(司馬江漢(こうかん))、駒井美信(よしのぶ)らがおり、礒田湖竜斎(いそだこりゅうさい)に強い影響を与えた。平賀源内、大田南畝(なんぽ)、大久保巨川らとの交友も注目される。法名は法性真覚居士(こじ)と伝えられるが、菩提寺(ぼだいじ)は不明。
[小林 忠]
『小林忠編著『浮世絵大系2 春信』(1973・集英社)』▽『楢崎宗重編『在外秘宝 鈴木春信』(1972・学習研究社)』
(内藤正人)
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江戸中期の浮世絵師。活躍期は1760年(宝暦10)から没年までの10年ほどで,ことに錦絵草創期の後半5年間は抒情的美人風俗画で一世を風靡(ふうび)した。本姓は穂積,通称は次郎兵衛または次兵衛。思古人,長栄軒と号した。江戸神田白壁町(一説に両国米沢町)に居住した。浮世絵の師は西村重長と伝えるが明らかでなく,実際には奥村政信や鳥居清満,それに京都の西川祐信らの作風を学んで成長した。宝暦年間(1751-64)の紅摺絵(べにずりえ)期には役者絵や古典志向の歌仙絵,武者絵などの作品も目立つが,やがて独自の繊細優美な美人画風を形成,注目を集めるようになる。ことに1765年(明和2)に江戸で流行した絵暦交換会ではめざましい活躍ぶりをみせ,好事家や彫師,摺師の技術者と協力して多色摺木版画錦絵の誕生に主導的な役割を果たした。錦絵草創期に木版による色彩表現の可能性を豊かに開発した春信は,一躍浮世絵界随一の人気絵師となり,没するまでの5年間に700点以上の錦絵作品を発表する精力的な活躍ぶりをみせた。中判(約28cm×20cm)という正方形に近い安定した判式を守り,中間色を主調とする周到な色面配置と,祐信に学んだ構築的な空間構成によって,濃密な詩的情趣に包まれた夢幻的世界を,実在感豊かに描き続けた。錦絵期にはもはや役者絵を描かず,美人画も遊女ばかりでなく当時評判の町娘(笠森おせんや本柳屋お藤など)をモデルにしたり,市民の日常生活に取材するなど,通例の浮世絵師とは異なる独特の主題傾向をみせた。古典和歌を図上に記し,その抒情を同時代の生活風俗に見立てる手法(見立絵)にとくに秀でた。代表作に《座敷八景》(全8図)や,《雪中相合傘》《おせんの茶屋》などがある。
執筆者:小林 忠
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1725?~70.6.14/15
江戸中期の浮世絵師。本姓穂積,俗称次郎兵衛または次兵衛。西村重長あるいは西川祐信の門人と伝える。鳥居清満や上方浮世絵とくに西川祐信の作風を学んで繊細優美な美人画を描いた。おもな作画期は1760年(宝暦10)から没年までの10年間で,はじめの5年間は紅摺絵(べにずりえ)を描いた。65年(明和2)の絵暦交換会で誕生した多色摺木版画,錦絵の創製に中心的役割をはたした。以後5年間で700点をこえる錦絵を制作。古典和歌を同時代の風俗にみたてた見立絵にすぐれ,当時評判の町娘を描いた作品が流行を作りだした。叙情性豊かな作風で浮世絵界に大きな影響を及ぼした。
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…京都の風俗画家西川祐信の作風が慕われ,その影響が明らかに認められるようになるのも,このころからである。
[中期]
1765年(明和2)の錦絵の創始は,その発端となった絵暦交換会で中心的な働きをした鈴木春信を,一躍浮世絵界随一の人気絵師に仕立て上げた。春信は,中間色や不透明な具入り(ぐいり)(胡粉を混ぜた)絵具を多用し,安定感のある配色に絶妙の感覚を発揮し,錦絵時代にふさわしい生来の色彩画家であった。…
…
[美術の大衆化]
同じころ江戸では,師宣にはじまる浮世絵が,墨摺りの手法を《芥子園画伝》の挿図に見るような中国の色刷り手法をヒントに彩色版画の方向へと発展させる。それは手彩色による丹絵(たんえ)から漆絵を経て紅摺(べにずり)絵へと進み,明和年間(1764‐72)鈴木春信によって錦絵が考案された。優美な王朝やまと絵の世界を江戸市民の日常生活の中に見立てた春信の錦絵によって浮世絵版画の芸術性は高まり,江戸浮世絵界は天明から寛政(1781‐1801)にかけて,鳥居清長,喜多川歌麿,東洲斎写楽らを輩出して黄金時代を迎えた。…
…浮世絵の多色摺り木版画の総称。1765年(明和2)俳諧を趣味とする江戸の趣味人の間で絵暦の競作が流行,これに参加した浮世絵師鈴木春信(1725‐70)が彫師,摺師と協力して技術を開発,〈吾妻錦絵〉と名づけて商品化した。版木に刻み付けた見当(けんとう)を合わせて,多くの色を正確に摺り分け,錦のように華やかで美しいいろどりが加えられた。…
※「鈴木春信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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