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鈴木春信 すずきはるのぶ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鈴木春信
すずきはるのぶ

[生]享保10(1725).江戸
[没]明和7(1770).6.14/15. 江戸
江戸時代中期の浮世絵師。本姓は穂積,通称は次郎兵衛 (次兵衛) ,思古人と号する。神田白壁町に居住。大田南畝大久保忠舒,平賀源内らとも親交があったといわれる。師弟関係や詳細な伝記は不明。

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デジタル大辞泉の解説

すずき‐はるのぶ【鈴木春信】

[1725?~1770]江戸中期の浮世絵師。江戸の人。本姓は穂積、通称、次郎兵衛。号、思古人。錦絵(にしきえ)の成立に中心的な役割を果たした。美人画を得意とし、遊里風俗や市井(しせい)の日常生活の情景に古典和歌の歌意などを通わせた見立絵(みたてえ)を好んで制作。

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百科事典マイペディアの解説

鈴木春信【すずきはるのぶ】

江戸中期の浮世絵師。本姓穂積,通称次兵衛,長栄軒と号す。西村重長の門人と伝える。初め鳥居派風の美人画役者絵を描いたが,1765年俳諧(はいかい)師の大小の会(絵暦の交換会)に画家として参加,彫師や摺(すり)師の協力を得て多色摺木版画(錦絵)を実現した。
→関連項目礒田湖竜斎一筆斎文調司馬江漢文化文政時代見立絵

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

鈴木春信 すずき-はるのぶ

1725-1770 江戸時代中期の浮世絵師。
享保(きょうほう)10年生まれ。江戸の人。明和2年当時流行の絵暦の制作を機に,巨川らの協力をえて錦絵(にしきえ)(多色刷り木版画)を創出。美人風俗画で人気絵師となった。師は西村重長(しげなが)あるいは西川祐信(すけのぶ)。明和7年6月15日死去。46歳。本姓は穂積(ほづみ)。通称は次郎兵衛。号は長栄軒,思古人。作品に「坐鋪(ざしき)八景」「風俗四季哥仙(かせん)」「笠森お仙」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

鈴木春信

没年:明和7.6.15(1770.7.7)
生年:享保10?(1725)
江戸中期の浮世絵師。本姓穂積,あるいは鈴木氏,通称次郎兵衛,または次兵衛。別号に思古人,長栄軒がある。絵は西村重長,あるいは西川祐信に師事したと伝え,遅くとも宝暦10(1760)年にはすでに浮世絵画壇にデビューしている。それ以前の伝歴はほとんどわかっていない。画壇に出た宝暦(1751~64)後期から続く明和1(1764)年にかけては,細判役者絵や故事説話画,美人風俗画などの紅摺絵版画を発表したが,この間の作品は,いずれも宝暦年間に人気を得た他の浮世絵師たちの作風に追随しており,文字どおり雌伏期といった感が強い。 こうした閉塞状況を一変させ,絵師春信を一躍浮世絵界のスターダムにのしあげたのが,明和2年に好事家たちのサークルで活況を呈した絵暦交換会であった。太陰暦の使われた江戸時代では,おのおのの年毎に月々の大小を知る暦が使われたが,この年文化人たちが競ってつくった絵暦は,それまでの未熟な木版画の技術をさらに高度な多版多色摺へと劇的に進歩させた。これら絵暦の作画を担当した浮世絵師のなかで,春信は版画の彫摺技術の向上に伴う色彩表現の可能性を探るなど積極的に主導的役割を果たし,以降は明和期(1764~72)を代表する当世美人絵師として,きらびやかな錦絵の創製にも尽力,吾妻錦絵として次々と世に送り出していった。 春信の美人画様式は,この明和2年に量産された絵暦への作画と,このときの制作熱の副産物ともいえる誕生したばかりの錦絵への作画とによっていきおい整理され,確立をみた。もっぱら中判錦絵を自らの作品発表の場としたが,春信独特の抒情性豊かな美人画に登場する男女は,いずれも少年少女のように無垢であどけない表情をみせ,あくまでも中性的,夢幻的な空間に生きる存在として自己完結している。一種幻想的な世界が構築されたこれら錦絵において,描かれる男女その他の図様は,実はそのほとんどが西川祐信ら先輩絵師の版本類から借用されたものであったが,春信はいわばそれらを独自の画風によって別次元の絵画に転化,再生し,一世を風靡したのである。なお,笠森おせんなど往時人気の江戸の評判娘をとらえる一方で,「座敷八景」「風俗四季歌仙」などの傑作を生んだ春信錦絵には,古典を時世風俗に置き換えて描く見立絵が多く含まれる点が特筆される。没年までの5年ほどの間に,駆け足で1000点あまりの作例を遺したが,まさに錦絵時代の開幕を高らかに宣言した浮世絵界の寵児といえよう。

(内藤正人)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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江戸・東京人物辞典の解説

鈴木春信

1725?〜1770(??年〜明和7年)【浮世絵師】江戸時代のグラビア、錦絵を創始。 谷中笠森お仙の美人画が大評判に。江戸出身の浮世絵師。錦絵の創始者。はじめ上方浮世絵の影響を受けながら、情緒に富む繊細な美人画を描いた。谷中笠森稲荷水茶屋看板娘お仙など、町娘をモデルにした美人画が好評を博し、一世を風靡。700点を越える錦絵を制作したが、人気の頂点で急死した。

出典|財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
(C) 財団法人まちみらい千代田
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世界大百科事典 第2版の解説

すずきはるのぶ【鈴木春信】

1725?‐70(享保10?‐明和7)
江戸中期の浮世絵師。活躍期は1760年(宝暦10)から没年までの10年ほどで,ことに錦絵草創期の後半5年間は抒情的美人風俗画で一世を風靡(ふうび)した。本姓は穂積,通称は次郎兵衛または次兵衛。思古人,長栄軒と号した。江戸神田白壁町(一説に両国米沢町)に居住した。浮世絵の師は西村重長と伝えるが明らかでなく,実際には奥村政信鳥居清満,それに京都の西川祐信らの作風を学んで成長した。宝暦年間(1751‐64)の紅摺絵(べにずりえ)期には役者絵や古典志向の歌仙絵,武者絵などの作品も目立つが,やがて独自の繊細優美な美人画風を形成,注目を集めるようになる。

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大辞林 第三版の解説

すずきはるのぶ【鈴木春信】

1725?~1770) 江戸中期の浮世絵師。江戸の人。本姓は穂積。長栄軒・思古人などと号す。1765年摺り師や彫り師らと協力して錦絵にしきえを創始し、夢幻的な美人画を描いて浮世絵の黄金時代を導いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鈴木春信
すずきはるのぶ
(?―1770)

江戸中期の浮世絵師。錦絵(にしきえ)の創始者。本姓は穂積(ほづみ)、通称は次郎兵衛、号は思古人。江戸神田(かんだ)白壁町に住み、西村重長(しげなが)の門人と伝えられるが明らかでなく、奥村政信(まさのぶ)、石川豊信(とよのぶ)、鳥居清満(とりいきよみつ)ら江戸の浮世絵師のほか、京都の西川祐信(すけのぶ)の影響も受けて独自の優美可憐(かれん)な美人画様式を確立。生年は1725年(享保10)と推定されているが、その伝記はほとんど不明。活躍期間は1760年(宝暦10)以降の10年間で、ことに最晩年の5年間は人気随一の流行絵師として画壇に君臨した。
 1765年(明和2)江戸の好事家(こうずか)の間で流行した絵暦(えごよみ)の競作は、木版多色摺(ずり)の技術を急速に発展・洗練させたが、それを浮世絵の版元が活用するところとなり、錦絵が誕生した。春信はこのおりの絵暦制作に中心的な役割を果たし、錦絵の商品化にも大きく貢献した。好んで扱った主題は、吉原の遊里風俗のほか、青年男女の清純な恋愛や親子兄弟の和やかな情愛など、市井に繰り広げられる日常生活の場景が目だつ。しかもそれらを古典和歌の歌意などと通わせた見立絵(みたてえ)として表すなど、浪漫(ろうまん)的な情趣濃い造形を得意とし、王朝的美意識を追慕するみやびな絵画世界を確立させた。また最晩年には、江戸の風景を絵の背景に写し込み、あるいは笠森稲荷(かさもりいなり)境内の水茶屋の娘かぎ屋お仙など評判の町娘や吉原遊廓(ゆうかく)における全盛の遊女らを実名で扱うなど、実感的な描写にも意欲を示して次代の方向を明確に予告した。錦絵の判式はほとんど中判(約28センチメートル×20センチメートル)に限られ、代表作に『座敷八景』(八枚揃(ぞろい)、1765ころ)、『縁先物語』『雪中相合傘』(いずれも1760年代後半)がある。また『絵本花葛羅(はなかつら)』(1764)、『青楼美人合(あわせ)』(1770)などの絵本にも秀作を残したが、肉筆画は少ない。門人に鈴木春重(はるしげ)(司馬江漢(こうかん))、駒井美信(よしのぶ)らがおり、礒田湖竜斎(いそだこりゅうさい)に強い影響を与えた。平賀源内、大田南畝(なんぽ)、大久保巨川らとの交友も注目される。法名は法性真覚居士(こじ)と伝えられるが、菩提寺(ぼだいじ)は不明。[小林 忠]
『小林忠編著『浮世絵大系2 春信』(1973・集英社) ▽楢崎宗重編『在外秘宝 鈴木春信』(1972・学習研究社)』

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世界大百科事典内の鈴木春信の言及

【浮世絵】より

…京都の風俗画家西川祐信の作風が慕われ,その影響が明らかに認められるようになるのも,このころからである。
[中期]
 1765年(明和2)の錦絵の創始は,その発端となった絵暦交換会で中心的な働きをした鈴木春信を,一躍浮世絵界随一の人気絵師に仕立て上げた。春信は,中間色や不透明な具入り(ぐいり)(胡粉を混ぜた)絵具を多用し,安定感のある配色に絶妙の感覚を発揮し,錦絵時代にふさわしい生来の色彩画家であった。…

【江戸時代美術】より


[美術の大衆化]
 同じころ江戸では,師宣にはじまる浮世絵が,墨摺りの手法を《芥子園画伝》の挿図に見るような中国の色刷り手法をヒントに彩色版画の方向へと発展させる。それは手彩色による丹絵(たんえ)から漆絵を経て紅摺(べにずり)絵へと進み,明和年間(1764‐72)鈴木春信によって錦絵が考案された。優美な王朝やまと絵の世界を江戸市民の日常生活の中に見立てた春信の錦絵によって浮世絵版画の芸術性は高まり,江戸浮世絵界は天明から寛政(1781‐1801)にかけて,鳥居清長,喜多川歌麿,東洲斎写楽らを輩出して黄金時代を迎えた。…

【錦絵】より

…浮世絵の多色摺り木版画の総称。1765年(明和2)俳諧を趣味とする江戸の趣味人の間で絵暦の競作が流行,これに参加した浮世絵師鈴木春信(1725‐70)が彫師,摺師と協力して技術を開発,〈吾妻錦絵〉と名づけて商品化した。版木に刻み付けた見当(けんとう)を合わせて,多くの色を正確に摺り分け,錦のように華やかで美しいいろどりが加えられた。…

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