永富独嘯庵(読み)ながとみどくしょうあん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「永富独嘯庵」の意味・わかりやすい解説

永富独嘯庵
ながとみどくしょうあん
(1732―1766)

江戸中期の医師。長門(ながと)国豊浦(とようら)(山口県下関(しものせき)市)の勝原家に生まれ、13歳で赤間関(あかまがせき)の医家永富友庵の養子となる。名は鳳、のち鳳介。字(あざな)は朝陽。初め義父に医学を学び、萩(はぎ)、さらに江戸で医学を修め、その後、京都の山脇東洋(やまわきとうよう)に師事して古医方を学んだ。また越前(えちぜん)国(福井県)の奥村良竹(1686―1760)には吐方を、長崎吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)には1762年(宝暦12)に蘭学(らんがく)を学んだ。彼は古医方を中心に諸流派の優れた点は取り入れた。著書に『吐方考』『嚢語(のうご)』、乳癌(にゅうがん)手術の可能性を記した『漫遊雑記』などがある。

[大鳥蘭三郎]

『永富独嘯庵・粟島行春著『医聖 永富独嘯庵』(1997・東洋医学薬学古典研究会)』

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朝日日本歴史人物事典 「永富独嘯庵」の解説

永富独嘯庵

没年明和3.3.5(1766.4.13)
生年享保17(1732)
江戸中期の医者。名は鳳,字は朝陽,通称昌安,のち鳳介。長門国豊浦郡宇部村(山口県下関市長府町王司)生まれ。父は勝原翠翁。13歳で赤間関(下関旧市内)の医者永富友庵の養子となり,養父や萩の井上元昌 に師事して金元の李東垣や朱丹渓の医(後世方)を学んだが満足できなかった。かたわら山県周南のもとで儒学を修めた。14歳で江戸に行き,さらに研鑽を積んだが,17歳で帰国。たまたま友人安達某に京都に山脇東洋があって古医方を唱えて医名が盛んであることを聞き,18歳のとき京都に上って東洋の門人となった。東洋は『傷寒論』を規範とし,汗・吐・下の三方のうち,汗・下の方に巧みであった。当時すでに吐方は一般に行われておらず,越前の奥村良竹 がひとり吐方に詳しいといわれていたため,東洋の子の東門と共に越前の良竹を訪ね,吐方をも学んだ。 のち京都を経て赤間関に帰り,宝暦12(1762)年には長崎に遊び,吉雄耕牛に就いて蘭学も修めた。偏見を排し,東洋流の古方を中心としつつも,他流の採るべきところは採り,蘭方にも深い興味と理解を示した。その著『漫遊雑記』中に記した乳がん手術の可能性が,後年華岡青洲 に同手術への示唆を与えた話は有名。医学のほかに製糖に関する仕事もある。門人には儒者亀井南冥や蘭方医小石元俊 らがおり,門人,著書を通じて後世に大きな影響を残した。<著作>『漫遊雑記』『吐方考』『嚢語』『葆光秘録』『黴瘡口訣』

(小曾戸洋)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「永富独嘯庵」の意味・わかりやすい解説

永富独嘯庵 (ながとみどくしょうあん)
生没年:1732-66(享保17-明和3)

江戸中期の医家。長門国に生まれ医家永富友庵の養子となり,名は鳳,字は朝陽,通称は昌安のち鳳介と改めた。17歳のとき京都の山脇東洋の門に入り古医方を学んだ。師東洋にはその才能を愛されたが,門弟らは毒舌をはく性格に毒性(どくしよう)な奴と陰口したのをとって独嘯庵と号したという。師の子東門とともに越前武生に赴き,奥村良竹に吐方を学び,古医方に汗・吐・下の三法を完備する役割をはたした。諸侯からの仕官の招きにも応ぜず,諸国を遊歴して見聞をひろめ,長崎に遊んで西洋医説の長所を認知し古医方の大成をはかっていたが,35歳の若さで大坂開業中に没した。その門に小石元俊がいる。1751年長門で製糖業を興した。著書に《吐方考》《漫遊雑記》などがある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「永富独嘯庵」の意味・わかりやすい解説

永富独嘯庵
ながとみどくしょうあん

[生]享保17(1732).2.14. 宇部
[没]明和3(1766).3.5. 大坂
江戸時代中期の医師。字は朝陽,名は鳳。百姓の家に生れたが神童として知られ,延享1 (1744) 年赤間関の医者永富友庵の養子となる。寛延4 (51) 年京都に出て山脇東洋に入門。次いで奥村良筑について吐方 (吐かせて治療する方法) を学ぶ。のちに西国を漫遊し,長崎で吉雄耕牛に学ぶ。この旅での経験をまとめて『漫遊雑記』を著わす。宝暦 12 (62) 年大坂で開業。門人に亀井南冥,小石元俊,小田享叔がいる。墓は天王寺区上之宮の蔵鷲庵。主著『吐方考』『嚢語』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「永富独嘯庵」の解説

永富独嘯庵 ながとみ-どくしょうあん

1732-1766 江戸時代中期の医師。
享保(きょうほう)17年2月14日生まれ。長門(ながと)(山口県)の人。永富友庵の養子となる。京都で山脇東洋に,越前(えちぜん)(福井県)で奥村良竹に,長崎で吉雄耕牛にまなび,大坂で開業。また製糖法を世にひろめた。明和3年3月5日死去。35歳。本姓は勝原。名は鳳。字(あざな)は朝陽。通称は昌安,鳳介。著作に「嚢語(のうご)」「吐方考」など。

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367日誕生日大事典 「永富独嘯庵」の解説

永富独嘯庵 (ながとみどくしょうあん)

生年月日:1732年2月14日
江戸時代中期の医師
1766年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の永富独嘯庵の言及

【長門国】より

…59年(宝暦9)藩は櫨蠟を城下町萩の豪商2軒の一手扱いとし,晒蠟の製造と領内の販売を独占させ,専売制を強化した。1751年医者永富独嘯庵は長府領内で製糖業をはじめた。これは藩の育成によって,5年後に大坂商人と白糖を年額1万斤,向こう10ヵ年間輸送する契約を結ぶほどになった。…

※「永富独嘯庵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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