貞観一〇年(八六八)正月二三日の権少僧都真紹付属状(図書寮所蔵文書)に「禅林寺以去仁寿三年十月買取藤原関雄朝臣宅、而建立之相続、以去貞観五年、経 勅為定額寺」とあり、仁寿三年(八五三)一〇月、空海の弟子真紹がこの地にあった藤原関雄の山荘を購入し、真言密乗の道場として堂宇の整備を行ったことに始まる。「三代実録」貞観五年九月六日条には真紹の願いによって定額寺とし、禅林寺の寺名を下賜する旨の記事が記されている。
これによると、当寺の前身は河内国の俗家
者、律令之所
制、私立
道場
者、格式之所
禁也」とあり、私道場の設置が禁止されていたため定額寺としての公認を願出たものであった。真紹は修法・寺務・日常生活全般に及ぶ一五ヵ条の禅林寺清規(図書寮所蔵文書)を定め、貞観一五年七月に没した。
なお当寺の前身となった藤原関雄の山荘以来、この地は洛東の名勝地として知られ、「文徳実録」仁寿三年二月一四日条の藤原関雄の卒伝には、「関雄少習属
文、性好
閑退
、常在
東山旧居
耽
愛林泉
」と記される。「古今集」にも「宮仕へ久しうつかうまつらで山里にこもり侍りけるによめる」として「おく山の岩垣もみぢ散りぬべし照る日の光見る時なくて」という関雄の歌が残る。今日永観堂の紅葉を「岩垣もみじ」と称するのは、この歌にちなんでいる。また「本朝文粋」には「晩秋於
禅林寺上方
眺望」と題する紀斉名の詩歌が収められている。
元慶元年(八七七)新たに寺内に清和太上天皇の御願寺(円覚寺)が建立され、寺地窄隘のため
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
→禅林寺
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→禅林寺
…京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派の総本山。山号を聖衆来迎山,院号を無量寿院といい,一般には永観堂の名で親しまれる。空海の弟子真紹は仁明天皇の厚遇に報いるため河内の観心寺に五仏を安置したが,辺地の縁に乏しいことを嘆き,855年(斉衡2)上表して藤原関雄の東山の山荘を買得し,一宇を建立して五仏を安置し,鎮護国家の道場としたのが初めである。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」