永観(読み)えいかん

精選版 日本国語大辞典 「永観」の意味・読み・例文・類語

えいかん エイクヮン【永観】

[一] 平安時代、円融、花山両天皇の代の年号。旱魃(かんばつ)や皇居炎上など災害が起こったため天元六年(九八三)四月一五日改元。永観三年(九八五)四月二七日に至り次の寛和(かんな)に代わる。出典は「書経‐洛語」の「王殷乃承叙万年、其永観朕子、懐上レ徳」

ようかん ヤウクヮン【永観】

平安中期の三論宗の僧。浄土教興隆の先駆者。文章博士源国経の子。禅林寺深観密教を学び、東大寺有慶に三論を受け、法相・華厳にも通じたが、のち浄土信仰に入り、光明山に隠棲した。のち強く請われて禅林寺に住し、三論および浄土の教えを広め、康和二年(一一〇〇)には東大寺別当となった。著書に「往生拾因」一巻、「往生講式」一巻がある。長元六~天永二年(一〇三三‐一一一一

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デジタル大辞泉 「永観」の意味・読み・例文・類語

ようかん〔ヤウクワン〕【永観】

[1032~1111]平安中期の僧。浄土教の先駆者。法相ほっそう華厳三論を学んだが、念仏三昧ざんまいに転じた。東大寺別当を務めたのち禅林寺に住し、念仏を布教。著「往生拾因」「往生講式」など。

えいかん【永観】[年号]

平安中期、円融天皇花山天皇の時の年号。983年4月15日~985年4月27日。

えいかん【永観】[人名]

ようかん(永観)

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普及版 字通 「永観」の読み・字形・画数・意味

【永観】えいかん(くわん)

永久に観る。その状態の存続をねがう。〔詩、周頌、有瞽〕(くわうくわう)たる厥(そ)の聲 肅(しゅくよう)として和鳴す 先是れ聽かん 我が客(客神(いた)れり 永く厥の

字通「永」の項目を見る

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朝日日本歴史人物事典 「永観」の解説

永観

没年:天永2.11.2(1111.12.4)
生年:長元6(1033)
平安後期の浄土教の僧。「ようかん」ともいう。法然に先立ち専修称名を唱えたことで有名。文章博士源国経の子。京都東山の禅林寺の深観に師事して真言,三論,華厳,法相の各宗を学ぶも,光明山寺に隠遁。のちに禅林寺に住み,さらに白河院の要請で康和2(1100)年,東大寺別当となった。前別当の経範が大衆に不法を訴えられた跡をうけたものだが,よく経営に努めて東大寺の中世寺院としての基礎を築き「能治の永観」と称された。別当を辞したのちは,禅林寺にあって念仏の教えに励み,京中の人々に念仏を勧めて迎講を行ったり,悲田院の病人や獄の囚人などの救済に当たった。浄土宗八祖のひとりに数えられ,浄土に往生した往生人としてもよく知られ,その行動は多くの説話集に載る。なお禅林寺の通称の永観堂はこの永観にちなむ。<著作>『往生講式』『往生拾因』<参考文献>井上光貞『新訂日本浄土教成立史の研究』

(五味文彦)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「永観」の解説

永観 ようかん

1033-1111 平安時代中期-後期の僧。
長元6年生まれ。京都禅林寺(永観堂)の深観(じんかん)について出家。東大寺で受戒し,有慶らに三論,法相(ほっそう),華厳(けごん)などをまなぶ。山城(京都府)光明山寺にこもったのち禅林寺にもどり,念仏にはげみ,浄土教の布教につくした。康和2年東大寺別当。天永2年11月2日死去。79歳。京都出身。俗姓は源(みなもと)。「えいかん」ともよむ。著作に「往生講式」「往生拾因」など。
【格言など】みな人を渡さむと思ふ心こそ極楽にゆくしるべなりけれ(「千載和歌集」)

永観 えいかん

ようかん

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日本の元号がわかる事典 「永観」の解説

えいかん【永観】

日本の元号(年号)。平安時代の983年から985年まで、円融(えんゆう)天皇、花山(かざん)天皇の代の元号。前元号は天元(てんげん)。次元号は寛和(かんな)。983年(天元6年)4月15日改元。旱魃(かんばつ)や御所の火災などの凶事を振り払うために行われた。984年(永観2)、円融天皇が退位し花山天皇が皇位を継承した。◇「えいがん」とも読む。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「永観」の意味・わかりやすい解説

永観
ようかん

[生]長元5(1032)? 京都
[没]天永2(1111).11.2. 京都
平安時代の三論宗僧。幼くして出家し,三論,法相,華厳の学を修めた。 30歳で奈良の光明山にこもって修行すること 10年,要請されて京都禅林寺 (永観堂) に住し,三論,浄土教の宣布に努めた。康和2 (1100) 年東大寺別当職に就任したが,2年で禅林寺に戻り,同寺に没。主著『往生十因』『弥陀要記』『往生講式』。

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世界大百科事典(旧版)内の永観の言及

【教信】より

…教信の往生は,往生伝や説話に収録され,広く知られた。院政期南都の浄土教家永観は,教信を念仏者の理想像として,《往生拾因》に詳しく述べた。親鸞はつねに〈われはこれ賀古の教信沙弥の定なり〉と語り,非僧非俗の範としている。…

【講式】より

…数段にわけられた創作的な講式文や,ときには歌讃(声明(しようみよう))なども加えられて,仏菩薩や高僧などの徳を讃嘆したり,特定の信仰や行業を勧化する。たとえば永観の《往生講式》は発菩提心,懺悔業障,随喜善根,念仏往生,讃嘆極楽,因円果満,回向功徳の七門にわかって,往生極楽の宗教心を高揚し,念仏行を策励する。この講式を法則として営まれたのが往生講である。…

【慈善事業】より

…【舟尾 好正】
[中世]
 中世における慈善事業の中心となっていたのは,仏教者が慈悲行・布施行(ふせぎよう)の実現を目的とする形で,乞食非人と呼ばれた人々に非人施行をすることであった。その最も早い時期の宗教活動家としてあげられるのは,東大寺別当となった永観(1053‐1132)を中心とする平安末期の浄土教の聖であろう。永観は京都禅林寺の梅の実を薬王寺の病人に施与してこれを救済したので,その梅の木は悲田梅と呼ばれたといわれている。…

【禅林寺】より

…京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派の総本山。山号を聖衆来迎山,院号を無量寿院といい,一般には永観堂の名で親しまれる。空海の弟子真紹は仁明天皇の厚遇に報いるため河内の観心寺に五仏を安置したが,辺地の縁に乏しいことを嘆き,855年(斉衡2)上表して藤原関雄の東山の山荘を買得し,一宇を建立して五仏を安置し,鎮護国家の道場としたのが初めである。…

【往生講式】より

…東大寺三論宗永観(ようかん)撰。1079年(承暦3)または96年(永長1)の作。…

【往生拾因】より

…東大寺三論宗永観(ようかん)撰。1103年(康和5)の成立と伝える。…

※「永観」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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