平安時代の三論(さんろん)宗の僧。「えいかん」ともいう。俗姓は源氏。文章博士(もんじょうのはかせ)源国経(みなもとのくにつね)の子。京都の人。1043年(長久4)に禅林寺(永観堂)の深観(じんかん)(1001/1003―1050)について出家し、翌1044年に東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受けた。三論、法相(ほっそう)、華厳(けごん)などを学び、1064年(康平7)には法成(ほうじょう)寺の法会(ほうえ)の研学竪義(りゅうぎ)を勤めた。その後10年間にわたり、山城(やましろ)国(京都府)相楽郡の光明山に隠棲(いんせい)して念仏の行を修した。以後、光明山には東大寺三論宗の浄土教家が続々と入山し、南都浄土教史上に重要な位置を占めた。1086年(広徳3)に興福寺維摩会(ゆいまえ)の講師となり、1099年(康和1)に権律師(ごんのりっし)に任命され、翌1100年東大寺別当となった。のち禅林寺に住して、『往生講式(おうじょうこうしき)』や『往生拾因(しゅういん)』などを著し、念仏の民間布教に努めたことは、後年の浄土教成立の先駆者とされる。
[伊藤隆寿 2017年10月19日]
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(五味文彦)
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…教信の往生は,往生伝や説話に収録され,広く知られた。院政期南都の浄土教家永観は,教信を念仏者の理想像として,《往生拾因》に詳しく述べた。親鸞はつねに〈われはこれ賀古の教信沙弥の定なり〉と語り,非僧非俗の範としている。…
…数段にわけられた創作的な講式文や,ときには歌讃(声明(しようみよう))なども加えられて,仏菩薩や高僧などの徳を讃嘆したり,特定の信仰や行業を勧化する。たとえば永観の《往生講式》は発菩提心,懺悔業障,随喜善根,念仏往生,讃嘆極楽,因円果満,回向功徳の七門にわかって,往生極楽の宗教心を高揚し,念仏行を策励する。この講式を法則として営まれたのが往生講である。…
…【舟尾 好正】
[中世]
中世における慈善事業の中心となっていたのは,仏教者が慈悲行・布施行(ふせぎよう)の実現を目的とする形で,乞食,非人と呼ばれた人々に非人施行をすることであった。その最も早い時期の宗教活動家としてあげられるのは,東大寺別当となった永観(1053‐1132)を中心とする平安末期の浄土教の聖であろう。永観は京都禅林寺の梅の実を薬王寺の病人に施与してこれを救済したので,その梅の木は悲田梅と呼ばれたといわれている。…
…京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派の総本山。山号を聖衆来迎山,院号を無量寿院といい,一般には永観堂の名で親しまれる。空海の弟子真紹は仁明天皇の厚遇に報いるため河内の観心寺に五仏を安置したが,辺地の縁に乏しいことを嘆き,855年(斉衡2)上表して藤原関雄の東山の山荘を買得し,一宇を建立して五仏を安置し,鎮護国家の道場としたのが初めである。…
…東大寺三論宗永観(ようかん)撰。1079年(承暦3)または96年(永長1)の作。…
…東大寺三論宗永観(ようかん)撰。1103年(康和5)の成立と伝える。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
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