池田大作(読み)いけだだいさく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「池田大作」の意味・わかりやすい解説

池田大作
いけだだいさく
(1928―2023)

宗教家(仏教者)。創価学会名誉会長。1月2日、東京府荏原(えばら)郡大森町(現、東京都大田区大森)に、海苔(のり)製造業を営む池田子之吉(ねのきち)の五男として生まれる。羽田(はねだ)第二尋常小学校、羽田高等小学校を経て、鉄工所に勤務。第二次世界大戦終戦後、働きながら旧制東洋工業学校、大世学院(後、東京富士大学、東京富士大学短期大学部)に学ぶ。1947年(昭和22)、戸田城聖(とだじょうせい)と出会い、創価学会に入会。1949年、戸田の経営する日本正学館に出版編集者として入社し、社業とともに創価学会の活動を開始する。1951年に戸田が創価学会第2代会長に就任するとともに、青年部で活発な活動をはじめ、1954年青年部参謀室長となり、創価学会の発展における中心的存在になっていく。

 戸田の死後、1960年(昭和35)に創価学会第3代会長に就任、800万世帯を超える大教団に発展させた。就任直後から海外での布教に尽力し、1975年には創価学会インタナショナル(SGI)を設立して会長に就任、同会の国際的発展の基盤を確立した。その間、第三文明論など仏教を根底にした文明論、学問論、政治論を展開して、政界進出をはじめ文化・教育・平和の諸活動を推進する。1964年には政党公明党を結成して衆議院に進出させた。1970年、同党は「国民政党」として宗教色を廃し、衆議院で最大51議席を占めるまでに発展し、1993年(平成5)以降は民主党政権の期間を除き連立政権一翼を担っている。また創価学園、創価大学、アメリカ創価大学などの教育機関、東洋哲学研究所、ボストン21世紀センター、戸田記念国際平和研究所などの研究機関、東京富士美術館や民主音楽協会などの文化機関を設立した。

 他方、小説『人間革命』(全12巻)、『新・人間革命』(全30巻)を執筆して、創価学会の歴史や理念、将来構想を描くとともに、平和や環境、教育問題などに提言を行い、世界各国の文化人、学者、政治家らと対談を重ねた。対談集『二十一世紀への対話』(A・J・トインビー)、『闇(やみ)は暁を求めて』(ルネ・ユイグ)、『社会と宗教』(ブライアン・ウィルソンBryan Wilson(1926―2004))、『二十世紀の精神の教訓』(M・ゴルバチョフ)など、多数が発刊されている。

 これらの文化学術交流によってモスクワ大学グラスゴー大学、北京(ペキン)大学など、各国の大学・学術機関から多くの名誉博士号、名誉教授号を受けている。また早くから国際連合の発展の重要性を主張し、1983年には国連平和賞を受賞した。

[中野 毅 2018年6月19日]

『『人間革命』全12巻(1965~1993・聖教新聞社/聖教文庫、潮出版社・潮文庫)』『『新・人間革命』全30巻(1998~2018・聖教新聞社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「池田大作」の意味・わかりやすい解説

池田大作
いけだだいさく

[生]1928.1.2. 東京,東京
[没]2023.11.15. 東京,新宿
宗教家。新宗教教団,創価学会の第3代会長として国内外で積極的に布教活動を行ない,信徒数を飛躍的に増大させた。
東京市荏原郡に生まれる。1948年に東洋商業学校を卒業して,大世学院(のちの富士短期大学)政経科に入学。1949年に中退(1967年に論文を提出して卒業)。1947年8月に創価学会に入り,第2代会長の戸田城聖に師事。1949年1月,日本正学館に入社して少年雑誌『冒険少年』(のちに『少年日本』と改題)の編集にあたる。1954年に聖教新聞社社友,同年 4月学会青年室長,1958年総務,1959年理事を歴任し,1960年5月に第3代会長に就任。1961年公明政治連盟を組織し,これを改組して 1964年11月に公明党とした。また同年,日蓮正宗の法華講総講頭となった。1969年,創価学会や公明党への批判書籍の出版を買収・脅迫などで封じ込めようとした言論出版妨害事件が明るみに出て 1970年5月に公明党との政教分離を表明。1968年創価学園,1971年創価大学をそれぞれ創立。1975年海外組織となる創価学会インタナショナル SGIを設立し,会長に就任。1970年代半ば以降,宗門の日蓮正宗総本山大石寺との関係が悪化,責任をとるかたちで 1979年4月に会長を辞して名誉会長に,さらに法華講総講頭も辞して名誉総講頭となる(1984年法華講総講頭に再任)。1990年末には法華講総講頭の地位を事実上解任,さらに翌 1991年11月に日蓮正宗側から創価学会と SGIに「破門」が言い渡され,関係が断絶した。1970年代以降,海外の政府要人,文化人と交流を重ねるなど民間外交に努め,特に 1972年の中国との国交正常化では大きな役割を果たしたといわれる。主著に『人間革命』『新・人間革命』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「池田大作」の解説

池田大作 いけだ-だいさく

1928- 昭和後期-平成時代の宗教家。
昭和3年1月2日生まれ。昭和22年創価学会にはいり戸田城聖に師事。戸田の学会長就任後男子部で活動,29年青年部参謀室長となり,学会の政治進出をすすめる。戸田の死後,総務をへて35年会長に就任,第三文明などの新理念をうちだす。布教活動で組織を拡大し,39年公明党を結成する。50年SGI会長,54年創価学会名誉会長。東京出身。富士短大卒。著作に「人間革命」など。

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世界大百科事典(旧版)内の池田大作の言及

【公明党】より

…そして,55年にはじめて地方議会に議員を送り,翌56年には参議院に3名の議員を当選させた。この段階では,政権獲得の意図はないから衆議院には議員を送らないとくり返し言明していたが,60年に池田大作が同会第3代会長に就任するとともに,政治進出の方向はますますはっきりしたものとなり,翌61年に同会の各級議員を包含した組織として公明政治連盟が結成され,さらに64年衆議院へも進出するという含みのもとに,これを改組して公明党が結成された。この段階での公明党の基本的な政治路線は〈中道主義〉であり,中道左派的な性格が強かったが,組織としては創価学会との二重組織で,綱領にも〈王仏冥合の大理念〉といった教義上の用語が導入されているなど,同党は宗教色を色濃く残していた。…

【創価学会】より

…学会の戦闘的折伏は,組合員の信教の自由をめぐって労働組合と対立したのみならず,寺院墓地使用をめぐる紛争をはじめ,各地で波紋をおこした。60年池田大作(1928‐ )が第3代会長に就任,61年公明政治連盟を結成して政治進出を本格化した。64年には公明政治連盟を発展的に改組して公明党を結成,67年の総選挙で衆議院に進出した。…

※「池田大作」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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