沢田美喜(読み)さわだみき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「沢田美喜」の意味・わかりやすい解説

沢田美喜
さわだみき
(1901―1980)

社会事業家。エリザベスサンダースホーム混血児養育施設、現在は児童養護施設)の創設者。三菱(みつびし)本家岩崎久弥(ひさや)の長女として東京・本郷に生まれる。お茶の水女高師中等部中退。22歳で外交官沢田廉三(れんぞう)(1888―1970)(のち初代国連大使)と結婚して海外生活を送り、ロンドン孤児院をみて社会事業に関心をもつ。1948年(昭和23)2月、神奈川県大磯(おおいそ)町の岩崎別邸を政府から買い戻し、自力でホームを開設。第二次世界大戦後の混乱のなかで日本における混血児の救済に奔走した。国際的な人脈を生かして海外との養子縁組も進めた。1953年にホームの孤児のため聖ステパノ学園を創立。1964年にはブラジル、パラ州に混血児入植のための聖ステパノ農園をも開設した(財政上の理由で1975年手放す)。カトリック信仰を混血児への福祉実践のなかに生かした軌跡は一つの時代を体現していた。1960年、人道主義に貢献した全世界の女性のなかから選ばれるエリザベス・ブラックウェル賞、1962年度朝日賞(社会奉仕賞)を受賞。『黒い肌と白い心――サンダース・ホームへの道』などの著作がある。1980年5月12日旅行先のスペインマジョルカ島死去

[小倉襄二]

『沢田美喜著『混血児の母――エリザベス・サンダース・ホーム』(1953・毎日新聞社)』『沢田美喜著『黒い肌と白い心――サンダース・ホームへの道』(1963・日本経済新聞社)』『日本テレビ編『子供たちは七つの海を越えた――エリザベス・サンダース・ホーム』(1979・日本テレビ放送網)』『沢田美喜著『母と子の絆――エリザベス・サンダース・ホームの三十年』(1980・PHP研究所)』『小坂井澄著『これはあなたの母――沢田美喜と混血孤児たち』(1982・集英社)』

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20世紀日本人名事典 「沢田美喜」の解説

沢田 美喜
サワダ ミキ

昭和期の社会事業家 エリザベス・サンダース・ホーム園長。



生年
明治34(1901)年9月19日

没年
昭和55(1980)年5月12日

出生地
東京・本郷

旧姓(旧名)
岩崎

学歴〔年〕
お茶の水高女〔大正5年〕中退

主な受賞名〔年〕
エリザベス・ブラックウェル賞〔昭和35年〕,朝日賞(昭37年度)〔昭和38年〕,世界の婦人賞〔昭和40年〕,総理大臣顕彰〔昭和41年〕,神奈川文化賞(第16回)〔昭和42年〕,ブリッジポート大学名誉法学博士号〔昭和45年〕,勲二等瑞宝章〔昭和47年〕,アデライデ・リストーリ賞(イタリア)〔昭和53年〕

経歴
三菱本家・岩崎久弥の長女に生まれる。大正12年外交官・沢田廉三と結婚、世界各国で生活した。戦後間もなく乗り合わせた汽車の網だなから自分の座席に混血の赤ちゃんの死体が落ちてきたのにショックを受け、私財を投じて混血児救済に乗り出す。聖公会の信者仲間だったエリザベス・サンダースの遺産5万円の寄付もあり、昭和23年神奈川県大磯町の旧岩崎家別邸に“エリザベス・サンダース・ホーム”を開設、園長兼理事長となる。以来作家パール・バックらの資金協力の下に、約2000人の混血孤児や戦災孤児がこのホームを巣立って行った。28年には聖スラパノ学園を創立、理事長兼園長をつとめる。またキリシタン遺物収集家でもあり、ホームの一角に沢田美喜記念隠れキリシタン資料館が設けられている。著書に「黒い十字架のアガサ」「黒い肌と白い心 サンダース・ホームへの道」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「沢田美喜」の意味・わかりやすい解説

沢田美喜 (さわだみき)
生没年:1901-80(明治34-昭和55)

社会事業家。三菱本家・旧男爵岩崎久弥の長女として東京で生まれ,外交官沢田廉三に嫁し,海外生活中にキリスト教(聖公会)に入信。第2次大戦後,駐留軍兵士と日本女性との間に生まれた混血孤児のために,1948年私財を投じて大磯にエリザベス・サンダース・ホームを開設し,2000人を超す孤児を育て,海外との養子縁組を進めた。その奉仕活動によって,62年朝日賞を受賞した。スペインのマヨリカ島で客死。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「沢田美喜」の意味・わかりやすい解説

沢田美喜
さわだみき

[生]1901.9.19. 東京
[没]1980.5.12. マヨルカ島
社会福祉家。三菱財閥の創立者岩崎弥太郎の孫として生れ,22歳で外交官沢田廉三 (のちにフランス大使,外務次官,国連大使) と結婚。夫の赴任先のロンドンで孤児院をみて社会福祉に関心をもつ。第2次世界対戦後,占領軍の残した混血児のために私財を投じて 1948年養護施設「エリザベス・サンダース・ホーム」を開設し,混血児の母といわれた。約 2000人の混血児をホームで育て,うち約 500人をアメリカに養子として送る。著書『黒い肌と白い心』 (1963) ,『母と子の絆』 (80) 。 60年人道主義に貢献した婦人のなかから選ばれるエリザベス・ブラックウェル賞,65年国際孤児財団世界の婦人賞,78年イタリアのアデライデ・リストーリ賞などを受賞。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「沢田美喜」の解説

沢田美喜 さわだ-みき

1901-1980 昭和時代後期の社会事業家。
明治34年9月19日生まれ。岩崎久弥の長女。沢田廉三(れんぞう)と結婚。戦後,神奈川県大磯に混血児のための施設エリザベス-サンダース-ホームをひらく。2000人をこえる孤児をそだてた。昭和55年5月12日死去。78歳。東京出身。東京女高師(現お茶の水女子大)中等部中退。著作に「黒い肌と白い心」など。
【格言など】どんな子どもでも,人間として生を受けた以上,立派に育っていかなくてはなりません(「私の歩んだ道」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「沢田美喜」の意味・わかりやすい解説

沢田美喜【さわだみき】

社会事業家。三菱本家・旧男爵岩崎久弥の長女。外交官沢田廉三と結婚。第2次大戦後,占領軍と日本女性の間にできた混血孤児の養育を決意,1948年私財を投じて神奈川県大磯の岩崎別邸にエリザベス・サンダース・ホームを開設。募金活動やパール・バックらの支援も得て2000人余の孤児を育て,孤児の自立や,海外との養子縁組に情熱を注いだ。エリザベス・ブラックウェル賞(1967年)など多くの賞を受賞。スペインのマジョルカ島で客死。著書に《黒い肌と白い心》などがある。

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367日誕生日大事典 「沢田美喜」の解説

沢田 美喜 (さわだ みき)

生年月日:1901年9月19日
昭和時代の社会事業家。エリザベス・サンダース・ホーム園長
1980年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の沢田美喜の言及

【混血】より

…戦後の日本においてもこれらの〈混血児〉は社会問題となった。沢田美喜はエリザベス・サンダース・ホームを設立し(1948),これら〈混血児〉の養育に力を尽くした。また,現在もなお,外国の軍隊が駐屯する基地周辺で,多くの〈混血児〉が生まれている。…

※「沢田美喜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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