泉城跡(読み)いずみじようあと

日本歴史地名大系 「泉城跡」の解説

泉城跡
いずみじようあと

[現在地名]矢板市東泉

うち川左岸の丘陵上に位置する中世の山城内川対岸東泉ひがしいずみの集落があり、内川を挟んで田地が広がる。城跡の現況は山林畑地である。内川を西側直下に望む丘陵上に本丸を設け、丘陵斜面に二の丸・三の丸を配し、南流する内川は外堀の役割を果している。本丸は東西約五五メートル・南北約九〇メートルの長方形状を呈する。三の丸を含めれば南北二〇〇メートル・東西一五〇メートルとなる。


泉城跡
いずみじようあと

[現在地名]岩間町泉

泉の南西部、鐘転かねころばし山の前方に突出した丘上にある。平坦地で眺望がよく、要害である。室町時代に築かれた宍戸持里の居城といわれ、筑波潤朝軍忠状(諸家文書纂)に「嘉吉(二)年三月廿三日 家人小倉四郎左衛門、其時節潤朝為幼少代官宍戸安芸守持(里)之手、宍戸庄内於泉城打死仕候、従(里)証判明鏡也、其時之敵者安房守(上杉憲実カ)(人脱カ)長尾弾正忠也」とあり、嘉吉二年(一四四二)に上杉氏の家臣長尾忠之によって陥落したが、結城合戦後始末としての残党の掃討戦の一つと思われる。


泉城跡
いずみじようあと

[現在地名]金井町泉 和泉

国道三五〇号のすぐ北側の小字まちにある。現在は半分土塁を残して畑地となり、堀跡は水田となっている。跡地からは須恵器片や土師器片とともに黄瀬戸破片や明国製の青磁の破片が出土する。応永二九年(一四二二)一二月一二日の室町将軍家(足利義持)御教書(木村正辞氏所蔵文書)で、泉保の一部を安堵された本間末長、さらに「佐渡故実略記」所収の永享七年(一四三五)二月三〇日(史料どおり)の普広院義教判物にみえる本間頼長の居城と思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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