津和野城跡(読み)つわのじようあと

日本歴史地名大系 「津和野城跡」の解説

津和野城跡
つわのじようあと

[現在地名]津和野町後田

じよう(霊亀山)山塊の南端、標高三六七メートルの山上に築かれた山城。中世の吉見氏時代は一本松いつぽんまつ城・三本松さんぼんまつ城と称した。別にふき城、(つわぶき・たくご)城ともいう。国指定史跡。永仁三年(一二九五)吉見頼行が築城したと伝え、吉見氏代々が本拠としたが、関ヶ原合戦後、慶長六年(一六〇一)坂崎直盛(成正)が当城に入り津和野藩三万石を領し、城郭を改修した。坂崎氏改易後の元和三年(一六一七)には亀井政矩が入り、政矩および同氏代々が寛永―元禄年間(一六二四―一七〇四)にかけ城下町を拡張整備し、明治四年(一八七一)まで城主として居城した。

〔吉見氏時代〕

史料とするには疑問が多いが吉見隆信覚書(下瀬家文書)によれば、二度目の蒙古襲来後の弘安五年(一二八二)に鎌倉幕府から西石見の海岸防備を命じられた吉見頼行が、能登から海路石見国に至り、まず木部の木園きべのきその(木曾野)に居住。その後永仁三年に城山の地を選び一本松城の縄張りを始め、二代頼直の正中元年(一三二四)に完成、嘉暦二年(一三二七)に木園から館を移したという。城山は麓を流れる津和野川が西麓から南端を回って大きく北に屈曲し、西・南・北を囲み、天然の内堀を形成していた。また東の津和野盆地、西の高田たかた喜時雨きじうの両盆地の外周をかなり高い山々が囲んでおり、防御上の適地であった。この段階の城は、現鷲原わしばら八幡宮裏の丘陵突端から北に続く丘陵に削平地を設けたもので、西側を大手とし、吉見氏は丘陵の西側の喜時雨に館を構えたと推定されている(津和野町史)。戦国期には三本松城と称し、おく御嶽みたけ城、中組の徳永なかぐみのとくなが城や下瀬山しもせやま(現日原町)三之瀬さんのせ(現柿木村)能美山のうみやま城・萩尾はぎお(現六日市町)など多くの支城や砦をもっていた。

天文二〇年(一五五一)九月に陶隆房(晴賢)大内義隆を倒し、大内義長を擁立して実権を掌握すると、吉見正頼は夫人が義隆の姉であることもあって、陶晴賢・大内義長と対決する道を選んだ。そして同二二年五月には下瀬左京助を安芸吉田郡山よしだこおりやま(現広島県吉田町)に遣わして、毛利元就との連携を強めた(五月二三日「上瀬休世書状」閥閲録)。晴賢・義長方は同二三年三月、当城を包囲する態勢を固め、これに呼応した益田氏も下瀬山城を包囲して、当城との連絡を絶った。同年の春から秋にかけて、「喜汁原」や「三本松本郷表」「坪尾小屋」などにおいて、戦闘が断続的に続いた(天文二三年四月二一日「益田藤兼感状」俣賀文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「津和野城跡」の解説

つわのじょうあと【津和野城跡】


島根県鹿足(かのあし)郡津和野町後田にある城跡。津和野城は、町の南端に位置する標高約370mの山頂に築かれた山城である。三本松(さんぼんまつ)城、蕗(ふき)城とも呼ばれる。西国防備を命じられた吉見頼行(よりゆき)が、1295年(永仁3)から築城にかかり、約30年の歳月を費やして完成したと伝えられる。山上を削って平坦地とし、山の峰つづきに堀切りのある典型的な山城であった。石垣構築は室町末期といわれる。吉見氏14代319年間、坂崎氏1代16年間、その後明治時代まで亀井氏が11代225年にわたり城主として在城した。坂崎氏は城郭の大改築を行い、防衛強化のために織部丸(おりべまる)や出丸を築いた。亀井氏になり、寛文年間(1661~73年)に現在の大橋から横掘までの約1kmにわたって外堀が掘られた。現在、城郭建造物は何も残っていないが、石垣はほぼ完全な形で保存されている。とくに本丸から城門にいたる石組みの堅固さ、雄大さはほかに比類がない。古城の旧態をよく保ち、山頂に石垣を築いた古城は全国でも珍しく、1942年(昭和17)に国の史跡に指定され、2007年(平成19)に追加指定があった。現在は、太鼓谷稲成神社の参道からリフト運行されている。JR山口線津和野駅から石見交通バス「津和野高校前」下車、徒歩約5分、リフトに乗り約5分、徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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