浅野川
あさのがわ
金沢市南東部の吉次山(八〇〇・一メートル)の北麓に源流があり、北西へ流れて犀川の北方をほぼ並行しながら卯辰山と小立野台地の間を通って金沢市街を抜け、河北潟に注ぎ、大野川となって日本海に入る。麻野川とも書く。「加越能大路水経」に「此川の真の谷は河北郡横谷村山の南、犀川谷の北の境」と記され、おもな支流に板ヶ谷川・折谷川・湯涌川・白見谷川・小豆沢川・角間川などがある。雅名を麻川・晁水とする例があり、俗に犀川を男川とよぶのに対して女川といい、ともに人々にめで親しまれてきた。流路延長三二・五キロの二級河川。
正和元年(一三一二)頃の白山水引神人沙汰進分注文案(三宮古記)に「森下村紺三端 大田ヨリ南朝野河
」とみえる。白山本宮の水引神人となった森下村の紺掻業者の勧進区域(営業圏か)が、現津幡町太田から南は浅野川に及んでいた。延徳三年(一四九一)三月一二日、冷泉為広は細川政元に同行して米泉を立ち、犀川を渡って「山ザキ里、橋」を通り、「アサ野」に至った(越後下向日記)。現金沢市石引を含む一帯に比定される山崎から浅野に至るには浅野川を越えなければならず、「山ザキ」の下に注された橋は浅野川の橋と考えられる。当川は古代では郡界ではないが、中世以降河北・石川両郡の分界とされた(三州地理志稿)。近世に入ると金沢城下町の北を限る川として城下経営に大きな役割を果すようになる。慶長四年(一五九九)城下の内総構堀を掘って母衣町で浅野川へ入れ、同一六年に外総構堀を掘って小鳥屋町で浅野川へ入れた(三州志来困概覧付禄)。元和六年(一六二〇)には宮腰・大野から城下端の下安江(のち堀川町)まで堀川を通して浅野川へ曳舟や材木を上げた(三壺記)。用水は浅野川小橋の南から引く小橋用水(浅野用水とも)、上中島町の東から引く中島用水(松寺用水・中村用水とも)がある。
〔架橋と管理〕
城下での橋は大橋と小橋の二つがあった。大橋は轟の橋ともよんだと伝える。文禄三年(一五九四)前田利家が犀川大橋とともに町人の架橋願を許したのが史料上確認できる最初である(加藩国初遺文)。橋の規模は延宝町絵図に長さ五〇間・幅三間、「加越能大路水経」に長さ五五間とあり、「金城深秘録」には寛保二年(一七四二)に従来の長さ五〇間・幅三間を、橋台石垣を押出して長さを縮めたとあるが、その長さは記していない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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浅野川
あさのがわ
石川県中央部,金沢市を流れる川。全長 33km。富山県境の順尾山に源を発した河内谷が石黒付近で浅野川と名を変え,北西流して金沢市街地を流れ,河北潟に注ぐ。かつては金沢城の北東側を防衛する役割を果した。アユや金沢料理に使われるカジカ (ゴリ) を産し,市民に親しまれてきた。洪水防止のため,1974年導水路を設け,犀川へ分水している。上流に湯涌温泉があり,金沢市内の河畔は泉鏡花の『滝の白糸 (義血侠血) 』で知られる。下流で合流する大野川の河口に金沢港がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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浅野川
あさのがわ
石川県金沢市を流れる川。市の南東、順尾(ずんのお)山に源を発し、北西流して金沢市街北東部を流れ、大野川に注ぐ。延長29キロメートル。犀(さい)川とともに金沢市民に親しまれている。名物のゴリを産し、河畔は泉鏡花(きょうか)作『義血侠血(きょうけつ)』の舞台で、かつては芝居小屋もありにぎわった。下流は河口から金沢駅付近まで舟運もみられた。洪水もあり、1974年(昭和49)犀川への分水工事を行った。
[矢ヶ崎孝雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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