浜田広介(読み)ハマダヒロスケ

デジタル大辞泉 「浜田広介」の意味・読み・例文・類語

はまだ‐ひろすけ【浜田広介】

[1893~1973]児童文学者。山形の生まれ。本名、広助。人間善意テーマ多く童話発表小川未明とともに童話を文学の一ジャンルとして確立。作「椋鳥の夢」「泣いた赤鬼」など。

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精選版 日本国語大辞典 「浜田広介」の意味・読み・例文・類語

はまだ‐ひろすけ【浜田広介】

  1. 童話作家。山形県出身。本名広助。早稲田大学卒。学生時代小説家を志すが、巖谷小波に認められ、児童文学に進んだ。善意をテーマに、叙情あふれる作品が多い。著作「椋鳥の夢」「泣いた赤おに」など。明治二六~昭和四八年(一八九三‐一九七三

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20世紀日本人名事典 「浜田広介」の解説

浜田 広介
ハマダ ヒロスケ

大正・昭和期の児童文学作家



生年
明治26(1893)年5月25日

没年
昭和48(1973)年11月17日

出生地
山形県東置賜郡屋代村(現・高畠町)

本名
浜田 広助

学歴〔年〕
早稲田大学英文科〔大正7年〕卒

主な受賞名〔年〕
児童文化賞(第1回・幼年物)〔昭和15年〕「ひらがな童話集」,野間文芸奨励賞(第2回)〔昭和17年〕「りゅうの目の涙」,芸能選奨文部大臣賞(文学・評論部門・第3回・昭和27年度)「ひろすけ童話集」,サンケイ児童出版文化賞(第4回 8回)〔昭和32年 36年〕「浜田広介童話選集」「あいうえおのほん―字をおぼえはじめた子どもたちのための」,国際アンデルセン賞国内賞(第2回)〔昭和38年〕「ないた赤おに」

経歴
米沢中学在学中、短歌グループ「果樹林社」を結成し、「秀才文壇」に短歌や小説を投稿。大正3年から「万朝報」に短編小説を投稿。6年、処女作童話「黄金稲束」が大阪朝日新聞の「新作お伽噺」に入選、児童文学へ進むきっかけとなる。7年早大卒業後、春秋社の「トルストイ全集」の校正に従事。8年「良友」誌の編集者、作家となる。10年実業之日本社に入社。のち、関東大震災で退社、文筆活動に入る。東北人らしいねばりと誠実な人柄をもって大正、昭和の50年以上にわたり約1000編におよぶ童話を書き続け、戦後の児童文学の盛況をもたらす先駆的役割を務めた。代表作に「ないた赤おに」「椋鳥の夢」「大将の銅像」「ひろすけ童話読本」「ひらがな童話集」など。昭和30年日本児童文芸家協会を設立し、初代理事長、41年会長となり、没するまで児童文学の普及と創作活動を推進した。“ひろすけ童話”の全容は「ひろすけ幼年文学全集」(全12巻)と「浜田広介全集」(全12巻)にみることができる。平成元年功績を讃え、ひろすけ童話賞が創設された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浜田広介」の意味・わかりやすい解説

浜田広介
はまだひろすけ
(1893―1973)

児童文学者。明治26年5月25日、山形県東置賜(ひがしおきたま)郡屋代村一本柳(現高畠(たかはた)町)に生まれる。中学校時代はアンデルセン童話を愛読した。山形県立米沢(よねざわ)工業染織科に入学したが半年で退学、島崎藤村(とうそん)、蒲原有明(かんばらありあけ)、薄田泣菫(すすきだきゅうきん)、北原白秋(はくしゅう)らを耽読(たんどく)してますます文学に関心を抱き、1914年(大正3)早稲田(わせだ)大学高等予科に入学、ロシア文学に親しんだ。早大時代『萬朝報(よろずちょうほう)』に小説『零落』その他が投稿入選。17年処女童話『黄金(こがね)の稲束』が『大阪朝日新聞』に入選、賞金50円を得て生涯の道が定まった。選者巌谷小波(いわやさざなみ)は、この作品が人間の善意のみで描かれていることを賞賛した。早大卒業後、片上伸(のぶる)の紹介で春秋社の『トルストイ全集』を編集。さらに童話雑誌『良友』の編集に従事、かたわら同誌に『花びらの旅』『むく鳥の夢』を発表して認められた。その作風はストーリー性よりも情緒性を重んじ、詩的香気ある平仮名短編童話作家として定評を得るに至った。21年第一童話集『椋鳥(むくどり)の夢(ゆめ)』を刊行以後、多くの童話集を刊行、小川未明(みめい)とともに童話を文学の一ジャンルとして定着させた功績は大きい。代表作に『泣いた赤鬼』がある。55年(昭和30)に日本児童文芸家協会を設立、初代理事長となった。芸術選奨、サンケイ児童出版文化賞などを受賞。昭和48年11月17日没。郷里に広介墨跡保存会がある。

[浜野卓也]

『『浜田広介全集』全12巻(1975~76・集英社)』『『泣いた赤おに』(偕成社文庫・フォア文庫・ポプラ社文庫)』『『浜田広介童話集』(旺文社文庫・講談社文庫・新潮文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「浜田広介」の意味・わかりやすい解説

浜田広介 (はまだひろすけ)
生没年:1893-1973(明治26-昭和48)

児童文学者。山形県の生れ。本名広助。1918年早稲田大学英文科卒業。在学中,《万朝報》に数編の投稿小説が入選,掲載されたが,同じ在学中の17年,《大阪朝日新聞》懸賞童話に筆名赤名晨吉で応募した《黄金の稲束》が一等当選,その縁で《良友》に《ほろほろ鳥》《呼子鳥》を発表,結局,以後児童文学一筋の人生を送った。大学卒業後,春秋社,コドモ社,精華書院,実業之日本社などの出版社に勤めながら作品を発表,21年に処女童話集《椋鳥(むくどり)の夢》を刊行,23年からは文筆一本の生活に入った。広介童話の大半は小学校中級以下の子どもを対象とした短編で,ために広介童話は幼年・幼児童話の代表として評価されてきたが,ストーリーの展開によるおもしろさよりは,情緒的美意識の世界を七五調中心のリズム文体で展開した作品が多く,戦後,新しい児童文学の波が興った際,小川未明とともに批判の対象となった。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浜田広介」の解説

浜田広介 はまだ-ひろすけ

1893-1973 大正-昭和時代の児童文学作家。
明治26年5月25日生まれ。大正6年童話「黄金(こがね)の稲束」が「大阪朝日新聞」の懸賞に入選。編集者から12年作家生活にはいる。その叙情的幼年童話は「ひろすけ童話」とよばれた。日本児童文芸家協会初代理事長。昭和48年11月17日死去。80歳。山形県出身。早大卒。本名は広助。作品に「泣いた赤鬼」「椋鳥(むくどり)の夢」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浜田広介」の意味・わかりやすい解説

浜田広介
はまだひろすけ

[生]1893.5.25. 山形,屋代
[没]1973.11.17. 東京
児童文学者。本名,広助。 1918年早稲田大学英文科卒業。在学中『黄金の稲束』 (1917) が『大阪朝日新聞』の懸賞童話に当選,『呼子鳥』 (18) ,『むく鳥の夢』 (19) などで童話作家としての地位を確立した。独特の説話的文体で,作品は約 1000編に及ぶ。日本児童文芸家協会初代理事長,会長をつとめた。

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百科事典マイペディア 「浜田広介」の意味・わかりやすい解説

浜田広介【はまだひろすけ】

児童文学者。本名広助。山形県生れ。早大英文科卒。初め小説を書いたが,のち童話に専念。《むく鳥の夢》《竜の眼の涙》《泣いた赤鬼》などの抒情的な作品で幼年童話の世界を開き,ひろすけ童話として親しまれた。

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367日誕生日大事典 「浜田広介」の解説

浜田 広介 (はまだ ひろすけ)

生年月日:1893年5月25日
大正時代;昭和時代の児童文学作家。日本児童文芸家協会初代理事長
1973年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の浜田広介の言及

【海外新聞】より

…1864年(元治1)6月に浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコJoseph Heco)が岸田吟香らの協力で発行した新聞。当初は手書きで《新聞誌》と題されていたが,65年(慶応1)5月から木版印刷の《海外新聞》となった。…

※「浜田広介」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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