デジタル大辞泉
「浜田弥兵衛」の意味・読み・例文・類語
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浜田弥兵衛
はまだやひょうえ
生没年不詳。江戸初期の朱印船貿易船船長。江戸初期、日本の輸入品中最大の中国産生糸は、おもに中国商人との台湾での出会(であい)貿易によりもたらされていた。しかし1624年(寛永1)オランダは台湾にゼーランディア城を築いて根拠地として以来、日本の貿易船に対し新たな課税を行うなど、圧迫干渉を加えるようになった。25年長崎代官末次平蔵(すえつぐへいぞう)の朱印船船長として弥兵衛が台湾に渡航した際、長官マルティヌス・ソンクはその貿易を妨害したので、彼は同地の住民を連れて帰り幕府に訴えた。その後オランダ側の事情説明のため新長官ヌイツが大使として来日したが、目的を果たせず帰った。28年、弥兵衛は、平蔵の持船二隻に貿易資金のほか多くの武器・火薬を積み、470人の乗組員を率いて、武力に訴えても貿易を強行する意志で台湾に渡った。ヌイツは弥兵衛を城内に抑留し、貿易も差し止められた。しかし弥兵衛らは機をうかがい、逆にヌイツを捕らえ人質としたので、オランダ側と和議が成立し、同年7月長崎に戻った。幕府もオランダの態度に不満をもち、来日オランダ船の抑留、蘭(らん)館の封鎖、貿易禁止などを行い緊張したが、オランダ側が32年責任者ヌイツを幕府に引き渡すなどして事態は好転し、貿易も再開された。弥兵衛とその子新蔵は、その後島原の乱に際して功をたて、のち新蔵は細川家に仕官した。
[沼田 哲]
『川島元次郎著『朱印船貿易史』(1921・巧人社)』▽『永積洋子著『平戸オランダ商館日記』(『日記記録による日本歴史叢書7』所収・1981・そしえて)』
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浜田弥兵衛 (はまだやひょうえ)
江戸前期の長崎代官末次平蔵の朱印船船長。生没年不詳。1625年(寛永2)台湾に渡航した際,同地のオランダ長官デ・ウィットに妨害され,取引が進まず,越年した。28年に渡航したとき,長官P.ヌイツを縛って脅し,紛争和解のための契約書に署名させた。双方から5人ずつ人質が交換され,弥兵衛船はオランダ人人質を乗せて長崎に帰った。この事件のためオランダ貿易は1633年まで中断し,その後の日蘭関係に多くの影響を及ぼした。
執筆者:永積 洋子
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浜田弥兵衛【はまだやひょうえ】
江戸前期の船頭。末次平蔵の朱印船の船長。生没年不詳。1624年台湾を占拠したオランダ人は朱印船貿易の抑圧を図り,1628年台湾ゼーランジア(安平(アンピン))で末次船2隻の出港を差し止めた。弥兵衛は部下とゼーランジア城に入り,オランダの台湾長官ヌイツを捕らえて長崎に連れ帰り,カロンの通訳により談合の末和解。幕府は弥兵衛が連れ帰ったオランダ船を抑留したため,日蘭貿易は1632年まで禁止された。
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浜田弥兵衛
はまだやひょうえ
江戸時代初期の貿易家。長崎代官末次平蔵のもとで朱印船の船長をつとめた。当時台湾はオランダの支配下にあり,輸出入品に関税をかけ朱印船貿易を妨害する政策をとっていた。寛永2 (1625) 年生糸貿易のため台湾に渡った浜田弥兵衛も,オランダの妨害にあい帰国せざるをえなかった。同5年弥兵衛は武装した日本人多数を率いて渡台し,実力でも貿易を強行する姿勢をみせたが,逆に抑留,武装解除などの報復を受けた。この事件は江戸幕府とオランダの話合いで,オランダ側が謝罪,台湾長官 P.ノイツは処分されたが,日蘭貿易は数年間中絶した。その子新蔵は細川家に仕えた。
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浜田弥兵衛
生年:生没年不詳
江戸前期の長崎代官末次平蔵の朱印船船長。寛永2(1625)年,末次船船長として台湾のタイオワン(台南)に渡航した際,貿易の関税をめぐりオランダ長官デ・ウィットに妨害され,越冬する。幕府への弁明のために住民を伴い帰国した。同5年,再び台湾に渡航,前年の日本遣使の台湾長官P.ヌイツにゼーランディア城に拘禁されたが,すきをみてヌイツを捕らえ,双方から5人ずつの人質を交換した。弥兵衛は人質を連れて帰国。オランダ人は平蔵の命で長崎に監禁され,また平戸オランダ商館も閉鎖されてオランダとの貿易は同13年まで中断することとなった。「台湾事件」(浜田弥兵衛事件)といわれる。
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浜田弥兵衛
はまだやひょうえ
生没年不詳。近世初期の貿易家で,長崎代官末次平蔵の朱印船の船長。しばしばタイオワン(台南の外港安平(アンピン))に渡航したが,同地の交易独占を意図するオランダ勢力に取引を妨害され,これと対立。1628年(寛永5)5月,オランダ商館と紛争(浜田弥兵衛事件)を引きおこし,幕府を巻きこんで5カ年にわたる日蘭貿易の中断をもたらした。島原の乱では子の新蔵とともに乱鎮圧に活躍した。
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浜田弥兵衛(1) はまだ-やひょうえ
?-? 江戸時代前期の朱印船船長。
長崎代官末次平蔵の配下で,寛永2年(1625)台湾渡航の際,オランダの台湾長官ヌイツに通商を妨害されたが,5年ヌイツを捕らえて紛争を解決。この台湾事件で日蘭貿易は一時中断した。のち子の新蔵とともに島原の乱で功をたてた。
浜田弥兵衛(2) はまだ-やひょうえ
1825-1887 江戸時代後期の武士。
文政8年9月1日生まれ。肥前大村藩(長崎県)藩士。大村藩尊攘(そんじょう)派三十七士のひとり。松林飯山が佐幕派に暗殺されたのを機に,同志とともに藩論を討幕にみちびいた。明治20年4月7日死去。62歳。名は重義。
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浜田弥兵衛
はまだやひょうえ
生没年不詳
江戸初期の貿易商人。末次船の船長
台湾を占領して朱印船貿易を妨害するオランダをこらしめるため,1628年武装船員400余人を同行して台湾に向かったが,かえって抑留された。しかし,機略をもって総督ヌイツを脅迫し,人質・賠償金をとり帰国した。
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浜田弥兵衛 (はまだやひょうえ)
生年月日:1825年9月1日
江戸時代末期;明治時代の肥前大村藩士
1887年没
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