江戸前期の大坂の豪商と伝えられる人物。生没年不詳。蓄積した巨富と豪奢な生活と,分を過ぎたおごりを理由とする1705年(宝永2)の闕所(けつしよ)処分で有名である。淀屋辰五郎の追放事件は,時を移さず浮世草子《棠大門屋敷(からなしだいもんやしき)》(錦文流作,1705)に採りあげられたのをはじめ,同じく浮世草子《風流曲三味線》(江島其磧作,1706),浄瑠璃《淀鯉出世滝徳(よどごいしゆつせのたきのぼり)》(近松門左衛門作,1708上演か),浮世草子《日本新永代蔵》(北条団水作,1713)などに題材を提供することとなった。これらにおいては,人名が江戸屋初五郎,佐渡屋竹五郎などと変更されているが,誰しも淀屋辰五郎を連想できるようになっている。またこれらの作品では,当主の廓通いと遊女の身請け,悪手代と忠義の手代の確執などに力点が置かれ,淀屋辰五郎の事件を,大名の御家騒動から取り潰しに至る経過と重ねあわせてみているのは明らかで,いわば町人世界の御家騒動の趣向となっているのが特色であろう。その結果,辰五郎の人物像に放蕩児のイメージが生じ,さらに遊女吾妻の名は,山崎与次兵衛物の世界と辰五郎の世界を結合させる契機ともなり,その後の浄瑠璃《双蝶々曲輪日記(ふたつちようちようくるわにつき)》(1749上演)などへの展開をうながした。
執筆者:守屋 毅
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生没年不詳。江戸初期の大坂の豪商。本姓は岡本氏。淀屋の初代を常安(じょうあん)(1622没)といい、豊臣(とよとみ)秀吉のころ材木業を営み、大坂の中之島を開発し、大坂の総年寄役を勤めた。その子孫は分立していずれも有力な大坂町人として活躍し、1634年(寛永11)には由緒ある町人として将軍徳川家光(いえみつ)に謁見したりしたが、1705年(宝永2)町人の分に過ぎた奢侈(しゃし)な生活をとがめられて全財産没収の処分を受けた。しかし、岡本氏の系図中には辰五郎を称する人物はいない。辰五郎は、淀屋一家の企業を代表する家号であったと思われる。2代目を継いだ常安の次男言当(个庵(こあん)、1643没)も事業の才に富み、諸大名の蔵米(くらまい)を引き受けて販売し、その店の前の米市は淀屋米市とよばれ、堂島米市の前身となった。また靭(うつぼ)の地を開拓し、ここに雑喉場(ざこば)魚市を開き、1632年(寛永9)には大坂に糸割賦(いとわっぷ)の配分権を獲得するなど、大坂の経済的発展に功績があった。3代は言当の養子箇斎(こさい)(1648没)、4代は箇斎の子重当(1697没)、5代は重当の子三郎右衛門(さぶろううえもん)で、処罰された辰五郎はこの三郎右衛門にあたる。近松門左衛門(もんざえもん)は、この淀屋処罰事件を題材として『淀鯉出世滝徳(よどごいしゅっせのたきのぼり)』を書いた。
[村井益男]
(森泰博)
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?~1717.12.21
大坂の豪商淀屋の5代目。名は三郎右衛門広当(ひろまさ)。辰五郎は通称。1705年(宝永2)闕所(けっしょ)・所払となり,山城国八幡(やわた)(現,京都府八幡市)に追放され,下村故庵と改名し晩年をすごした。闕所の理由は,驕奢または新町廓での豪遊が原因で印偽造の罪を犯したなど諸説があるが定かでない。後世に流布した闕所時の財産目録は幕府・大名への巨額の貸金と土地の集積を示すが,真偽は不詳。
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