淀屋辰五郎(読み)よどやたつごろう

精選版 日本国語大辞典 「淀屋辰五郎」の意味・読み・例文・類語

よどや‐たつごろう ‥たつゴラウ【淀屋辰五郎】

江戸中期の大坂の豪商。姓は岡本氏。淀屋は大坂の陣以来、徳川氏の信任を得て、代々材木や塩、魚、青物などを扱った他に、諸藩の蔵元として蔵米を売って巨利を得た。米穀・金融業を主として幕府・諸大名金貸しをもし、土地不動産が多かったが、五代目辰五郎に至り、巨富と豪奢な生活が分を過ぎるおごりとされ、宝永二年(一七〇五)闕所の処分をうけて衰滅した。多くの小説・戯曲の素材となったが、浮世草子の「棠大門屋敷(からなしだいもんやしき)」(錦文流作)、浄瑠璃の「淀鯉出世滝徳(よどごいしゅっせのたきのぼり)」(近松門左衛門作。宝永五年大坂竹本座初演)、歌舞伎脚本の「けいせい楊柳桜(やなぎさくら)」(辰岡万作・近松徳叟作。寛政五年(一七九三)大坂坂東座初演)などが名高い。生没年未詳。

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デジタル大辞泉 「淀屋辰五郎」の意味・読み・例文・類語

よどや‐たつごろう〔‐たつゴラウ〕【淀屋辰五郎】

江戸中期の大坂の豪商。宝永2年(1705)町人の分限を越えたぜいたくのため、所払いの刑を受けたという。浄瑠璃・歌舞伎などに脚色されている。生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「淀屋辰五郎」の意味・わかりやすい解説

淀屋辰五郎 (よどやたつごろう)

江戸前期の大坂の豪商と伝えられる人物。生没年不詳。蓄積した巨富と豪奢な生活と,分を過ぎたおごりを理由とする1705年(宝永2)の闕所(けつしよ)処分で有名である。淀屋辰五郎の追放事件は,時を移さず浮世草子《棠大門屋敷(からなしだいもんやしき)》(錦文流作,1705)に採りあげられたのをはじめ,同じく浮世草子《風流曲三味線》(江島其磧作,1706),浄瑠璃《淀鯉出世滝徳(よどごいしゆつせのたきのぼり)》(近松門左衛門作,1708上演か),浮世草子《日本新永代蔵》(北条団水作,1713)などに題材を提供することとなった。これらにおいては,人名が江戸屋初五郎,佐渡屋竹五郎などと変更されているが,誰しも淀屋辰五郎を連想できるようになっている。またこれらの作品では,当主の廓通いと遊女の身請け,悪手代と忠義の手代の確執などに力点が置かれ,淀屋辰五郎の事件を,大名御家騒動から取り潰しに至る経過と重ねあわせてみているのは明らかで,いわば町人世界の御家騒動の趣向となっているのが特色であろう。その結果,辰五郎の人物像に放蕩児イメージが生じ,さらに遊女吾妻の名は,山崎与次兵衛物の世界と辰五郎の世界を結合させる契機ともなり,その後の浄瑠璃《双蝶々曲輪日記(ふたつちようちようくるわにつき)》(1749上演)などへの展開をうながした。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「淀屋辰五郎」の意味・わかりやすい解説

淀屋辰五郎
よどやたつごろう

生没年不詳。江戸初期の大坂の豪商。本姓は岡本氏。淀屋の初代を常安(じょうあん)(1622没)といい、豊臣(とよとみ)秀吉のころ材木業を営み、大坂の中之島を開発し、大坂の総年寄役を勤めた。その子孫は分立していずれも有力な大坂町人として活躍し、1634年(寛永11)には由緒ある町人として将軍徳川家光(いえみつ)に謁見したりしたが、1705年(宝永2)町人の分に過ぎた奢侈(しゃし)な生活をとがめられて全財産没収の処分を受けた。しかし、岡本氏の系図中には辰五郎を称する人物はいない。辰五郎は、淀屋一家の企業を代表する家号であったと思われる。2代目を継いだ常安の次男言当(个庵(こあん)、1643没)も事業の才に富み、諸大名の蔵米(くらまい)を引き受けて販売し、その店の前の米市は淀屋米市とよばれ、堂島米市の前身となった。また靭(うつぼ)の地を開拓し、ここに雑喉場(ざこば)魚市を開き、1632年(寛永9)には大坂に糸割賦(いとわっぷ)の配分権を獲得するなど、大坂の経済的発展に功績があった。3代は言当の養子箇斎(こさい)(1648没)、4代は箇斎の子重当(1697没)、5代は重当の子三郎右衛門(さぶろううえもん)で、処罰された辰五郎はこの三郎右衛門にあたる。近松門左衛門(もんざえもん)は、この淀屋処罰事件を題材として『淀鯉出世滝徳(よどごいしゅっせのたきのぼり)』を書いた。

[村井益男]

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朝日日本歴史人物事典 「淀屋辰五郎」の解説

淀屋辰五郎

没年:享保2(1717)
生年:生年不詳
江戸前期大坂の豪商,淀屋の淀屋橋家最後の当主。姓は岡本,名は三郎右衛門広当,号は个庵,辰五郎は通称。家祖常安から父の重当の代までに蓄積された巨富と金融業を,広当は10歳代前半の少年期に相続したが,宝永2(1705)年幕府の命により,闕所すなわち財産没収の上,大坂,京,堺,伏見,淀から追放となった。闕所の理由を岡本家系譜も,当時の町人たちも広当の驕奢とし,浄瑠璃(「淀鯉出世滝徳」)や浮世草子(「日本新永代蔵」)に採りあげられ有名になった。しかし真相は,手代など5人が獄門(斬首のうえ,その首をさらす刑)に,広当はその付加刑としての闕所に処せられているので,手代などに謀書,謀判のような幕府が死罪をもって取り締まりの対象とした行為があったためである。広当は山城国八幡に移住し,12年後にここで没した。その間,正徳5(1715)年には徳川家康百年忌恩赦を受けたと伝える。<参考文献>横山三郎「淀屋史料の現段階」(『船場』3~5号),脇田修『近世大坂の町と人』

(森泰博)

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百科事典マイペディア 「淀屋辰五郎」の意味・わかりやすい解説

淀屋辰五郎【よどやたつごろう】

元禄期大坂の豪商。本名三郎右衛門。生没年不詳。材木商を営み中之島を開拓して蔵米の販売を行った淀屋の5代目。1705年驕奢を理由に闕所(けっしょ)(全財産没収)所払に処せられた。この淀屋追放事件は時を移さず浮世草子,浄瑠璃(じょうるり)などの題材となった。
→関連項目豪商

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「淀屋辰五郎」の意味・わかりやすい解説

淀屋辰五郎
よどやたつごろう

江戸時代初期の大坂の代表的豪商。正しくは淀屋五代目三郎右衛門。糸割符 (いとわっぷ) 権,蔵米販売権その他の特権をもっており,その店頭には米市が立った。豪奢な生活をし,ガラス天井をつくって金魚を放ち涼を楽しんだという。宝永2 (1705) 年その驕奢な生活が町人の分限をこえたものとして闕所 (けっしょ) ,所払 (ところばらい) に処せられた。しかしその勢力はのち船場の両替商に分散した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「淀屋辰五郎」の解説

淀屋辰五郎
よどやたつごろう

?~1717.12.21

大坂の豪商淀屋の5代目。名は三郎右衛門広当(ひろまさ)。辰五郎は通称。1705年(宝永2)闕所(けっしょ)・所払となり,山城国八幡(やわた)(現,京都府八幡市)に追放され,下村故庵と改名し晩年をすごした。闕所の理由は,驕奢または新町廓での豪遊が原因で印偽造の罪を犯したなど諸説があるが定かでない。後世に流布した闕所時の財産目録は幕府・大名への巨額の貸金と土地の集積を示すが,真偽は不詳。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「淀屋辰五郎」の解説

淀屋辰五郎 よどや-たつごろう

?-1718* 江戸時代前期-中期の豪商。
大坂の淀屋5代目。宝永2年分にすぎた生活をとがめられ全財産没収,所払いの闕所(けっしょ)処分となる。近松門左衛門(もんざえもん)「淀鯉出世滝徳(よどごいしゅっせのたきのぼり)」などの題材となった。享保(きょうほう)2年12月21日死去。姓は岡本。名は広当。通称は三郎右衛門。

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旺文社日本史事典 三訂版 「淀屋辰五郎」の解説

淀屋辰五郎
よどやたつごろう

?〜1717
江戸中期の大坂の豪商
淀屋个庵 (こあん) の5代目三郎右衛門の俗称といわれる。淀屋は代々諸大名の蔵元をつとめた。大名貸などで諸大名をしのぐ富をもち,1705年,町人に過ぎた豪奢な生活を幕府にとがめられ,全資産を没収・追放された。

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