出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
演歌師。本名平吉。神奈川県大磯(おおいそ)に生まれる。14歳で上京して叔父の家に寄宿、船員を志したが長続きせず、横須賀で日雇い人夫などをしているうち、壮士の街頭演歌を聞き心酔、東京・新富町にあった壮士演歌の本部に入る。18歳のことで、以来、演歌師として盛名をはせ、明治後期から大正にかけて『ラッパ節』『マックロ節』『ノンキ節』『デモクラシー節』など数多くの演歌の作詞を行っている。堺利彦(さかいとしひこ)を知って社会主義運動に入り、その勧めでつくった『社会党ラッパ節』は有名だが、彼の資質はむしろ非政治的といってよく、「過去の演歌はあまりに壮士的概念むき出しの“放声”に過ぎなかった」という述懐のとおり、風俗世相を風刺、慷慨(こうがい)した『むらさき節』や晩年の『金々節』などによくその本領を発揮した。昭和に入ってからは演歌師を廃業、四国遍路や九州一円を巡礼、9年近い放浪の生活を送る。早世した妻タケとの間にできた1子が添田知道(ともみち)である。
[安田 武]
『『添田唖蝉坊・知道著作集』五巻・別巻一(1982・刀水書房)』
演歌師。本名平吉。神奈川県大磯の農家に,利兵衛・つなの次男として生まれた。1885年(明治18)上京して船員や労務者などをしていたが,90年街頭で壮士たちが歌う愛国調の演歌に感激して職業演歌師となった。日清戦争前後に,北陸をはじめ地方を巡演するなかから民謡調のメロディを自作にとりいれるようになり,99年に横江鉄石と共作した《ストライキ節》が最初のヒット作となった。日露戦争下に堺利彦から依頼されてつくった《ラッパ節》が戦後にかけて大流行となり,その新作をかさねるうちに社会主義を信条とするにいたり,《ああ金の世》《ああわからない》《増税節》などで大正初年にかけての大衆歌謡をリードした。痛烈な風刺を軽いユーモアの曲調にのせるところに啞蟬坊演歌の特色があり,社会主義者のフラクション抗争には超然としていたが,演壇からの話が警官によって〈弁士中止!〉となっても演歌で呼びかけ,〈啞蟬坊は2度の中止を食う〉と評判だった。
執筆者:荒瀬 豊
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(倉田喜弘)
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…流行歌をはやらせる根本的な力は,それぞれの時期における国民感情で,封建時代の落書(らくしよ)のような世相批判的なユーモア文学もあるとともに,時事や社会事件あるいは社会的流行や流行語などから受けた衝撃的な印象をうわさ話のように伝えるだけの素朴な歌詞をもつものもあり,そのほか歌詞とはとくに関係なく新奇な節や言葉をたのしむものがあって,流行歌の歌詞をすべて世相の反映であるとか,大衆の生活上の欲求の表現であるとかいえない実例が多い。 〈演歌〉という名称の,世相批判的な歌詞をもつ流行歌を作りつづけた添田啞蟬坊(そえだあぜんぼう)などはむしろ特殊な例で,多くの流行歌は単に場当りをねらったものであり,新奇さのゆえに流行し,古くなれば葬られていくという程度の,積極的に世相を批判するのではなく,消極的に世相の波にただよって大衆にとりいったものというほうが真相に近い。 流行歌の形態は伝達の方法に大きく作用される。…
※「添田唖蝉坊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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