山間を生活の根拠として,独自な文化の体系を形成していたと考えられる人々。《延喜式》や《万葉集》などにも記されているが,その実体は不明な点が多い。山人の伝承は全国の山間の村で聞くことができたが,その多くは山男,山姥(やまうば),天狗,鬼などの妖怪の類である。里に住んで水田稲作農業に従事している人々からは,山は異質の空間であると認識され,畏怖の観念でとらえられていたため,多くの怪異を生み出したのである。しかし,東北地方の狩猟者であるまたぎ,関東以西に多い山窩(さんか),全国の山間奥地に分布した木地屋(きじや)など漂泊的生活を送ってきた人々は,定期的にたつ市(いち)の日などに,その生産物をたずさえて現れ,里人と交易することがあった。その接触の経験が背景となって,里人は山住みの山人を異質の文化に属する集団だという印象をもっていたのである。山に住む人々は水田稲作農耕に頼らず,自然物の採取や狩猟,林業や焼畑・常畑耕作を主生業としていて,生活様式は里と異なっている。一般に水田稲作農耕の舞台である里中心の社会や文化が絶対的基準とされてきたので,山住みの人々の社会や文化は後進的あるいは劣ったものとみなされてきた。その山住みの人々の多くは近世以降において,里の文化に組み込まれていったのであるが,なお少数の人々はそれを拒否して伝統的生活様式を守り,必要以上の交流をはかろうとしなかった。文献記録にきわめて乏しく,その全体像を浮きあがらせることは困難であるが,民俗学による研究は数少ない成果であるといえるだろう。
日本民俗学の樹立者である柳田国男は,山人の研究を強力に進めた第一人者であり,〈山の人生〉など主要な論文は《定本柳田国男集》第4巻に収められている。柳田は山人が実在したことを仮定して,天津神(あまつかみ)を奉ずる渡来民族(水田稲作農耕民)によって山に追われた先住民が山人であるとし,山人は国津神(くにつかみ)を奉じた非稲作民であったとしている。そして渡来民族が優れていたために,先住民はしだいに集団としての自律性を失って征服され,服従していくが,その過程を六つに想定してはいるものの,大きくは山人の子孫は里にくだって里人に混交したものと,山に残ったものとに分けている。柳田は,その山に残った山人の実体をとらえようとして,1934年から3年間をかけて全国50の山村の調査を大々的に行った(〈日本僻陬諸村における郷党生活の資料蒐集調査〉。その成果は《山村生活の研究》(1937)としてまとめられた)が,予期した結果を得られぬまま,山人の研究を中止してしまったのである。しかし,この調査では第一次資料は得られなくとも,里にくだって里人に混交した山人の子孫の生活の中から,その文化要素を引き出すことは可能だとして,研究の継続を提唱している。柳田は山人の文化的特色として,(1)意外に大きい行動力を持つこと。(2)木地屋などのように驚くほど知能が進んでいること。(3)文字を持ち史学・文学を持つこと。(4)統一された信仰の存在していたこと,の4点をあげており,これらが里の水田稲作農耕民と対立することのできた条件であるという。そして山人の性格として,正直,潔癖,剛気,片意地,執着,負けぎらい,復讐心などが備わっていたことをあげていて,豊かな山人像を提示したのである。
柳田と同時代の民俗学者折口信夫もまた,山人に深い関心を寄せた学者である。折口は山人には先住民もいるが,里に住んだ者が山に入り,さらに海岸の民が山地に移住した者によって構成されているとして,その成立を一義的に限定していない。なかでも重要な構成主体は,海の民が山地に移住した場合であるという。もと海の神に奉仕し祭りを行っていた海の民が山に移り住んだことによって,海の神に対する信仰を山の神にふりかえた部分があるというのである。宮廷の大嘗祭をはじめ平野や賀茂の大社の祭りに山人として参加しているのは,もともと海上はるかなかなたの海の神の祝福をもたらす役割であったのが,山に移住して山の神の奉仕者となったため山の神の祝福をもたらす者として現れてくるようになったのだと説く。折口の海と山との連続性と里との交流過程は,柳田の仮説と異なるわけだが,柳田が山を山人の起源とするのに対して,折口は海に中心をおいている点が注目される。また折口は,山人の具体的な姿として,笠をつけみの(蓑)をまとい,山苞(やまづと)として削掛け(けずりかけ)などの棒や杖を所持して現れることを特徴としてあげており,その姿で宮廷の祭りには呪詞(いわいごと)を述べに来たり,のちには村々を訪れて祝福を与えていく節季候(せきぞろ)などの遊芸,門付人ともなっていく過程に目をむけていて,日本芸能史に果たした役割の重要性を指摘しながら,独自の体系を打ち出している。そのほか早川孝太郎や宮本常一らの研究もあるが,山人研究は近代化の進展とともに,実態調査をとおしては,実体をつかみにくくなったために,十分な研究が行われていない。しかし文献史料と儀礼や芸能に見いだせる諸要素の比較によって,その本質をとらえる可能性はまだ残されている。
→山
執筆者:坪井 洋文
元来は山地に住む伝説的巨人族の総称であるが,先住民に対する記憶や異形(いぎよう)の野人に対する畏怖も混じった概念と考えられる。地域的には南ドイツ,スイス,チロルなど南部山地と,ハルツ,ザクセン,北ボヘミアとつながる中部の山地に伝説が多く,ドイツ語でwilde Leuteという。一般に長身で毛深く,男は長い髪やひげの野性的姿であるが,女にはまれに髪を長く編んだ白皙美貌の者もいるという。岩壁の裂け目や森の洞窟などを住み家とし,里人ともときに無言の交流があり,農業や牧畜を手伝ったり,ときに里人と情を通ずることもあるというが,禁忌に妨げられて長続きはしない。
とくに鉱山の富を象徴するものとして金銀貨に姿が刻まれたり,宿屋や薬屋の屋号に用いられたり,またカーニバルの仮装行列で人気の出し物になったりするが,その一方で山人狩りとその処刑の一幕を演ずる祭りが年々催される地方もあったという。バイエルンの山地で,牛の角の間に籠をつけ,花やイチゴを入れて飾る風習は,もと〈(山人の)お嬢さん〉へ捧げる供物の意味があったという。
執筆者:新井 皓士
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普通、山稼ぎをする木こりや炭焼きのことをいう。かつては村人に対して、山中にいた住民を山人または山男とよんで、先住民の子孫と考えられていた。明治時代まで村ではこの人々に出会ったという話がよく伝えられた。町の市(いち)などに現れたとか、山中に大男が寝ていて、脱いだ大きな履き物があったとかいう。農民にとって、山間に住む人への畏怖(いふ)感の反映がみられる。江戸時代、津村淙庵(そうあん)の著した『譚海(たんかい)』(1795)に次のような記事がある。相模(さがみ)国(神奈川県)箱根に山男というものがいた。裸体で木葉樹皮を衣とし深山中に住んで赤腹魚をとるのを業としていた。市があるのを知っていてこの魚をもってきて米と交換した。交易のほか多言せず、交易が終わると道のない所を鳥の飛ぶように帰っていった。小田原の城主もこのことを知っていて、けっして鉄砲などで打ってはならぬと制していた、という。
山人という語は、古代の文献にもみえているが、それが当時においても先住民を意味していたかどうかはよくわからない。古文献によると、山人が都に出て宮廷に仕えた記事もあり、『江家次第(ごうけしだい)』(1111)によると庭燎(にわび)の役を勤めたとある。
[大藤時彦]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…明治・大正期の作家,児童文学者。本名季雄,初期別号山人(さざなみさんじん)。東京生れ。…
…両者は近代まで混用されており,区別する必要がある場合は,野獣を捕る者を狩人,川魚漁を川立ち,海魚・湖魚を捕獲する人を漁師または漁人といっていた。九州では〈りゅうし〉と発音して山猟をする者を区別し,あるいは山人(やまと)という。奥羽地方では山猟者に山立ちあるいはマタギの名がある。…
…異装の来訪神については,民俗文化における山と里の交流という背景が考えられている。村里に定着して,稲作農耕に従事している平地民と,山中奥深くで漂泊していた山人(やまひと)(山民)との間の文化交流は,歴史的伝統をもっている。稲作農耕民の祖霊信仰には,田のカミと山のカミの複合した形が見られるが,この正月の異装の神は,山人の信仰の対象であった山中のカミの具象化した姿であり,この存在は,里の農民たちにとって,畏怖されていたと思われる。…
※「山人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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