平安末・鎌倉初期の学者。祐隆の子。14歳で学問に志し,大学を経て,直講,助教,大外記,明経博士などを歴任し,没するまでの24年間,局務の地位にあった。初め藤原頼長の知遇を得て,しきりに催される経書の講論に参加し,ことに《春秋左氏伝》を得意とし,彼の訓点を加えた《春秋経伝集解》が残る。後年には九条兼実の信任を得て,記録所寄人となりしばしば政策遂行に関して諮問を受けている。その政治理念は儒教的合理主義で,1163-64年(長寛1-2)の伊勢神宮と熊野権現とが同体か否かについての長寛勘文事件などによく発揮されている。またその立場から院政に対しては批判的姿勢を貫いた。卓越した学識と実務能力とを兼ね備え明経道(みようぎようどう)における清原氏の地位を確固たるものにし,紀伝道の下位に甘んじてきた明経道が,有用の学として隆盛に向かうのに大きく貢献した。没後,京都嵯峨の車折(くるまさき)明神としてまつられた。
執筆者:後藤 昭雄
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(山崎誠)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
平安後期の漢学者。14歳で学に志して家業を継ぎ、少外記(げき)、大外記、穀倉院別当などに任ぜられ正五位上に上る。大外記の労は24年に及び、和漢にわたる学識と実務の手腕は当代無比といわれた。早くから藤原頼長(よりなが)に認められて『春秋左氏伝』を講義し、晩年は藤原兼実(かねざね)の眷顧(けんこ)を被って政治の諮問にあずかり、その子供に講書を依頼された。また、明経(みょうぎょう)道の復興に力があり、死後車折(くるまさき)明神として祀(まつ)られたが、その学識は『礼記(らいき)』から『中庸(ちゅうよう)』を独立させたのは頼業であるという誤伝を生んだほどである。
[大曽根章介]
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