大学寮の一学科であるが、一般科ないし予科的性格をもつ。中国の経学(けいがく)を修めるもので、職員令(しきいんりょう)に規定された400人の学生すべてがここに所属する。令制教官は3名、のち5名に増員された。『周易(しゅうえき)』『尚書』『周礼(しゅらい)』『儀礼』『礼記』『毛詩』『春秋左氏伝』『孝経(こうきょう)』『論語』などを学び、律令官人に必要な儒教思想を身につけることを求められた。学生はまず音博士(おんはかせ)について教科書の音読を学び、ついで博士、助教について講読を受けた。旬ごとに1日の休仮(暇)(きゅうか)を与えられたが、休仮の前日に博士の考試を受けねばならず、また1年の終わりには大学頭、助の試を受け、大義八条を問い、二経以上に通ずるものは官吏に推薦された。明経道を専攻的に学んだ著名人に空海、藤原三守(みもり)、忠貞王などがおり、空海の伝には、大学に経遊し、直講味酒浄成(うまききよなり)について『毛詩』『左伝』『尚書』を読み、岡田博士に『左氏春秋』を問うた、とある。9世紀段階までの明経道教官にはさまざまな卑姓出身者が知られるが、10世紀末になると中原、清原両氏が明経道博士家として固定してくる。
また学生は教官の経書講説を終えると式部省頭、助の試である明経試を受けることが令の規定であるが、10世紀初めに至ると、明経得業生(とくごうしょう)となったものが明経試を受けるのが原則となった。
[森田 悌]
『桃裕行著『上代学制の研究』(1947・目黒書店)』
律令の学制において,中国の経学を修める課程。本来,令制ではこの経学のほかには主要な課程はなく,学生400人はすべてこの課程をふむ定めで,教官としては博士(はかせ)1人,助教2人があり,教科書は《周易》《尚書》《三礼》《毛詩》《左伝》《孝経》《論語》などである。学生は修業後は国家試験の成績に応じて官吏に登用される規定であったが,このコースはきわめて困難なものであった。奈良時代中期ころから,教官として直講(ちよくこう)2人が増置されたが,しだいに紀伝道(きでんどう)が分離独立してくると,明経道の名称が経学課程に付けられるようになり,博士も明経博士(〈大学博士〉とも〈大博士〉ともいう)と称することになった。そして平安時代に紀伝道が全盛になると,明経道の地位はこれに押されて低くなり,学生の数も減じ,平安時代中期からは教官の地位は清原,中原両氏に占められるようになって学問は停滞した。そして江戸時代には清原氏のあとの舟橋,伏原(ふせはら)両氏が博士としての形体を保つにすぎなかった。
執筆者:土田 直鎮
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大学寮の四道の一つで,経学(けいがく)を教授した学科。大学博士1人,助教2人,直講(ちょっこう)2人の教授陣と,その下で学ぶ明経得業生(とくごうしょう)4人,明経生400人からなり,令制の明経の試験に対応した。のち問者生(もんじゃしょう)10人が加わる。明経試は,「礼記(らいき)」「春秋左氏伝(さしでん)」(以上大経),「毛詩」「周礼」「儀礼」(中経),「周易」「尚書」(小経。798年に「春秋公羊(くよう)伝」「春秋穀梁(こくりょう)伝」が加わる)から選択した大・小各1経または中経2経と必修の「孝経」「論語」から出題され,上上・上中・上下・中上第をそれぞれ正八位下・従八位上・大初位(だいそい)下・少初位上(上下・中上第の叙階は802年に新設。それ以前は式部留省)に叙して出仕を認めた。平安時代に成立した明経道でもこの点は同じだが,明経得業生が正規の受験資格者として位置づけられたことは重要。明経試合格者は明経道教官として,問者生試合格者は一般官人としてそれぞれ活躍した。以上の2試を受験できなかった者についても,年挙(ねんきょ)などによる任官の道が開かれていた。
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