清風与平(読み)せいふう・よへい

朝日日本歴史人物事典 「清風与平」の解説

清風与平(初代)

没年:文久3(1863)
生年享和3(1803)
幕末の京焼の陶工。号は梅賓。加賀(金沢)藩士保田弥平の子で,文化11(1814)年ごろ加賀から京都に出て,仁阿弥道八のもとで陶技を学ぶ。文政初年に道八の命により,桃山の三夜荘に窯を築き楽焼を作る。文政10(1827)年ごろに五条橋東4丁目に開窯して,楽焼,染付,朝鮮写,白磁,色絵などを焼成した。与平も他の江戸後期の京焼陶工と同様に御庭焼の指導にも出掛けており,弘化4(1847)年3月には,備前(岡山)藩筆頭家老伊木忠澄(三猿斎)に招かれ,虫明焼の指導をし,磁器を焼いている。その作風は師である仁阿弥道八の確立した五条坂の和風京焼を受け継いでおり,中でも染付は評価が高い。清風家は4代まで続き,3代与平は陶芸家として初めて帝室技芸員に選ばれ,明治期の名工として名高い。

(伊藤嘉章)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清風与平」の意味・わかりやすい解説

清風与平
せいふうよへい

[生]享和3(1803).金沢
[没]文久1(1861).京都
江戸時代後期の京都の陶工。号は梅賓。文化 12 (1815) 年京都に出て仁阿弥道八に陶芸を学ぶ。文政 11 (28) 年頃から五条坂に窯を設け青磁,白磁,金襴手 (きんらんで) などを焼く。弘化4 (47) 年には岡山におもむき,虫明 (むしあけ) 焼の工人に技術を伝えた。2世以後も与平の名を継ぎ名工として今日に及んでいる。3世与平は 1893年陶芸界最初の帝室技芸員となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「清風与平」の解説

清風与平(3代) せいふう-よへい

1851-1914 明治-大正時代の陶芸家。
嘉永(かえい)4年生まれ。2代清風与平に入門し,その妹と結婚。のち3代をつぐ。釉薬(ゆうやく)を工夫し,純日本風陶磁器を制作。青磁,白磁を得意とした。明治26年陶芸界最初の帝室技芸員となる。次男が4代をつぐ。大正3年7月15日死去。64歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身。本姓は岡田。号は清山,晁浦,晟山。

清風与平(初代) せいふう-よへい

1803-1861 江戸時代後期の陶工。
享和3年生まれ。京都にでて2代高橋道八の弟子となる。文政10年ごろ五条橋東に窯をきずき,白磁,染め付け,金襴手(きんらんで)などを制作した。また,備前岡山の虫明(むしあけ)焼の指導にもあたった。文久元年死去。59歳。加賀(石川県)出身。号は梅賓。

清風与平(2代) せいふう-よへい

1845-1878 幕末-明治時代の陶工。
弘化2年生まれ。初代清風与平の子。家業をついで各種磁器を制作,染め付けの名手といわれた。あらたに白磁浮文の諸器をつくる。明治6年京都府勧業御用掛(がかり)となる。明治11年死去。34歳。号は五渓。

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世界大百科事典(旧版)内の清風与平の言及

【明治・大正時代美術】より

… 明治初年,すでに蒔絵の柴田是真や彫金の加納夏雄は,名工として世に知られていたが,大多数の工芸職人たちはこうした工芸振興策をあしがかりとして頭角を現していった。彫金の海野勝珉(うんのしようみん),布目(ぬのめ)象嵌の鹿島一布(かしまいつぷ)(1828‐1900),蒔絵の白山(しらやま)松哉,無線七宝の濤川(なみかわ)惣助,西陣織の伊達弥助(1844‐92),そして陶工の〈歳寒三友〉とたとえられた宮川香山(1842‐1916),竹本隼太(はやた)(1848‐92),3代清風与平(せいふうよへい)(1851‐1914)たちである。
[近代化への道]
 1907年官設の展覧会として文部省美術展覧会(文展)が開設された。…

※「清風与平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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