日本大百科全書(ニッポニカ) 「渋江抽斎(儒医)」の意味・わかりやすい解説
渋江抽斎(儒医)
しぶえちゅうさい
(1805―1858)
江戸末期の儒医。江戸神田の生まれ。幼名は恒吉(つねきち)、のち全善と改めた。字(あざな)は道純または子良、抽斎は号である。家は父祖代々弘前(ひろさき)藩の藩医を勤め、抽斎も医学を医者で儒学者の伊沢蘭軒(いざわらんけん)に師事して修め、家業を継いで弘前藩医となり江戸に住んだ。また儒学を狩谷棭斎(かりやえきさい)、市野迷庵(いちのめいあん)(1765―1826)に学び、考証学に通じ、森立之(もりたつゆき)(枳園(きえん))と共著で『経籍訪古志』を著した。この書は中国古典の解題書の白眉(はくび)とされる。1844年(弘化1)官立の医学館講師となり、その後将軍徳川家慶(とくがわいえよし)に召されて十五人扶持(ぶち)を給された。医書『素問識小霊枢講義』『護痘要法』(1831)などの著書がある。森鴎外(おうがい)の小説『渋江抽斎』は彼の生涯に材をとったものである。
[大鳥蘭三郎 2016年5月19日]
[参照項目] |
| | |