森鷗外 (もりおうがい)
生没年:1862-1922(文久2-大正11)
明治・大正の小説家,評論家,翻訳家,陸軍軍医。本名林太郎。別号観潮楼主人など。石見国津和野(現,島根県)生れ。父森静泰(せいたい)(のち静男)は津和野藩主亀井家の典医だったが,維新後は禄を離れて上京し千住で診療所を開いた。鷗外は母峰子の薫陶下に,没落した生家再興の期待を託されて育ち,1872年(明治5)に上京,81年に最年少で東大医学部を卒業し,軍医に任官した。84年衛生学研究の目的でドイツに留学,西欧の思想と文化に触れて清新な感動を受けた。88年帰国。落合直文や井上通泰,妹の小金井喜美子らと新声社(S.S.S.)を結成し,西欧の抒情詩を中心とする訳詩集《於母影(おもかげ)》(1889)を発表した。ついで《しからみ草紙》を創刊し評論を中心に,レッシングにみずからを擬した戦闘的な文学啓蒙活動を展開,とくに坪内逍遥の説く写実主義に対して,イデー(理想)を重視する浪漫主義の立場から批判を加え,没理想論争を応酬した。また,《舞姫》や《うたかたの記》(ともに1890)など,ドイツ留学記念の三部作を書いて戯作性を脱却した近代小説の確立に貢献した。他方,医学面では《衛生療病志》などの個人誌を創刊,医学界の封建性の払拭(ふつしよく)をめざした論戦をいどみ,その批判が軍医部内の上部に及ぶことも辞さなかった。ハルトマンの美学を祖述した《審美論》(1892-93)などの業績もある。日清戦争の従軍で文学活動は中断したが,凱旋(がいせん)後,96年に《めさまし草》を創刊し,合評形式による実作の批評を試み,とくに樋口一葉を推賞して世に出したことは有名。しかし,99年小倉の第12師団に左遷され,《鷗外漁史とは誰ぞ》(1900)を書いて以後,文壇への発言を停止した。その間,クラウゼウィツの《戦争論》の翻訳を試み(《大戦学理》1903),また,アンデルセンの翻訳《即興詩人》(1892-1901)を完成した。1902年東京の第1師団に復帰,日露戦争に従軍,戦場での詩歌・俳句をまとめた異色のアンソロジー《うた日記》(1907)を編んでいる。
1907年陸軍軍医総監に進級して,陸軍省医務局長に補せられ,軍医としての最高位についた。そして09年,家庭内のトラブルを描いた小説《半日》から創作活動を再開し,第2の活動期を迎える。《スバル》《三田文学》など,耽美主義の拠点となった雑誌の精神的支柱として自然主義と対立したが,自身の作風はロマンティシズムの枠をこえて,はるかに多彩だった。自己の性欲史を冷徹に点検,叙述した《ヰタ・セクスアリス》(1909)は発禁処分を受けて話題になったが,身辺の事実に題材を求めた短編も多い。かつての戦闘的な啓蒙性は影をひそめ,作風は総じて玲瓏(れいろう)かつ端正で,口語体に統一された文体も格調が高い。《予が立場》(1909)でresignation(諦念)の心境について語っているが,公務にも芸術にもけっしてのめりこむことのない独自の哲学を語った《あそび》(1910),巨富を蕩尽(とうじん)したあげく非情な傍観者と化した豪商を描く《百物語》(1911)などに,高級官僚として日本の近代を生きる複雑な心情を彷彿(ほうふつ)する。《妄想》(1911)も同系列の作品で,半生を回想してなお尽きぬ〈見果てぬ夢〉の思いを述べる。《普請中》(1910)は留学時代の愛人と再会して無感動な高級官吏を描いた短編だが,西洋を模して及ばぬ日本の近代に対する諦念が根底にひそむ。しかし,現実の時代状況への対応も敏感で,華族の嫡男を主人公とする《かのやうに》(1912)以下一連の秀麿(ひでまろ)物や《沈黙の塔》(1910)では,大逆事件に象徴される政府の社会主義弾圧政策に対して,強い危惧を表明している。文部省の国語政策に干渉して,歴史的仮名遣いの改定を阻止した《仮名遣意見》(1908)もあった。やや長編の作では,知識青年の個性形成史を追った《青年》(1910-11),薄幸な女性のひそかな覚醒と失意のドラマを描いた《雁》(1911-13)などがあり,後者は青春の追憶をこめたロマンティックな抒情がただよう。
大正期の鷗外は乃木希典の殉死に触発されて,歴史小説に新しい領域を開くことになった。《興津弥五右衛門の遺書》(初稿1912)は殉死者の遺書に擬して乃木への賛歌を語り,《阿部一族》(1913)は殉死の掟と人間性の相克を描いて,武士道を貫いた死者への感動を隠さない。《大塩平八郎》(1914)では大塩の挙兵を〈未だ醒覚せざる社会主義〉の乱と呼んで批判的である。これらの歴史小説はいずれも史料に忠実な〈歴史其儘(そのまま)〉の手法が特色だが,その後,史料の束縛を脱して主観を自由に生かす〈歴史離れ〉の方向にむかい,《山椒大夫》(1915)や《高瀬舟》《寒山拾得》(ともに1916)などの佳作が書かれた。女性の献身,求道者の安心立命などを主題とする。庶民の反抗を描いた《最後の一句》(1915)も異色作である。さらに《渋江抽斎(しぶえちゆうさい)》(1916)では医にして儒者を兼ねた抽斎の伝を,伝記の考証過程とあわせ描いて,史伝の新しい領域を開いた。文体もまた,高雅に完成され,《北条霞亭》(1917-21)などが書きつがれたが,1922年萎縮腎で没した。夏目漱石と併称されることが多く,相並んで明治の精神と倫理を体現した作家である。
執筆者:三好 行雄
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森鷗外
もりおうがい
1862〜1922
明治・大正時代の文学者・軍医。夏目漱石と並ぶ文豪
本名は林太郎。石見(島根県)津和野の生まれ。東大医学部卒業後,軍医となりドイツに留学。帰国後『舞姫』『即興詩人』などの創作・翻訳,ヨーロッパ文芸の紹介・啓蒙に活躍した。明治末期自然主義文学に対抗し,晩年は歴史小説・史伝を著した。代表作に『青年』『雁』『阿部一族』『大塩平八郎』『高瀬舟』『渋江抽斎』など。その間,軍医総監を経て陸軍省医務局長をつとめた。
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世界大百科事典(旧版)内の森鷗外の言及
【阿部一族】より
…[森鷗外]の短編小説。1913年(大正2)《中央公論》に掲載,同年刊の短編集《意地》所収。…
【衛生統計】より
…衛生学者森林太郎(鷗外)は衛生学について,〈衛生(ヒュギエーネ)トハ健人ノ外囲ニ在テ影響ヲ之ニ及ボスベキ天然ノ事物ト或ハ人ノ健康ニ欠ク可カラズ或ハ人ノ健康ヲ目的トスル装置トヲ知悉スルノ学ナリ〉と述べ,さらに〈総て衛生上の事業は,人の健康を保護して,人に長生をさせるのを目的にします〉と,この学問の性格・目的を明らかにしている。他方,衛生と保健という用語は明治期以来同義的に用いられてきているので,衛生統計はほぼ保健統計とみなしうる。…
【於母影】より
…1889年(明治22)8月2日《国民之友》第58号の綴込み夏季付録として発表された。訳者は〈S.S.S.〉(新声社の略),メンバーは森鷗外,小金井良精夫人で鷗外の妹喜美子,落合直文,市村瓚次郎(さんじろう),井上通泰。鷗外の翻訳作品集《水沫集(みなわしゆう)》(1892)に再録するときに2編を加えて全19編となった。…
【雁】より
…[森鷗外]の長編小説。1911年(明治44)から13年にかけて《スバル》に断続連載,15年に補筆して刊行。…
【官展】より
…なお太平洋戦争後,文部省はその主催する展覧会を日本美術展覧会(日展)と改称し,46年から48年まで開催して官展は幕を下ろした。
[初期の文展]
1907年に開設された文展は,日本画,洋画,彫刻の3部で構成され,第1回展の審査委員に橋本雅邦,横山大観,下村観山,竹内栖鳳,川合玉堂,黒田清輝,岡田三郎助,和田英作,浅井忠,小山正太郎,中村不折,高村光雲,長沼守敬,新海竹太郎など各派の有力作家のほか,大塚保治,岡倉天心,藤岡作太郎,森鷗外,岩村透ら学者が任命された。そして菱田春草《賢首菩薩》,和田三造《南風》の2等賞受賞(1等賞なし)などは,発足した文展の明るい面を示すものであった。…
【虚実】より
… なお,この虚実の問題は,写実主義・自然主義などのように,現実対象の忠実な再現的描写を志す芸術の表現理論に共通する課題であって,明治以降もしばしば論争の種となっている。例えば坪内逍遥の《小説神髄》における模写主義の提唱は,虚構を排し事実をとることを説いたものであるが,これに対し二葉亭四迷は《小説総論》で〈虚相〉を写すべきことを主張し,森鷗外は〈早稲田文学の没理想〉(1891)で,逍遥の没理想論は世界は〈実(レアアル)〉ばかりでなく〈想(イデエ)〉に満ち満ちているという重大なことを見落としていると反駁(はんばく)した。さらに石橋忍月は《舞姫》評で〈虚実の調和〉ということを説いている。…
【クラウゼウィツ】より
…その後,世界各国の将帥たちやエンゲルス,レーニンなどにも深い影響をあたえた。森鷗外訳《大戦学理》(1903)は,日本におけるこの書物の翻訳の嚆矢をなすものである。【望田 幸男】。…
【三人冗語】より
…森鷗外主宰の雑誌《[めさまし草]》第3~7号(1896年3月~7月)において,鷗外,幸田露伴,斎藤緑雨の3人が行った作品合評。〈頭取(とうどり)〉(鷗外)による作品紹介に続いて,〈ひいき〉〈さし出〉などの変名の人物が批評する形式をとる,最初の匿名座談会形式の文芸時評。…
【しからみ草紙】より
…《柵(しがらみ)草紙》とも書く。発行所は新声社(略称S.S.S.),森鷗外が主宰したが,44号(93年5月)から寺山星川(てらやませいせん)の率いる《城南評論》と合併し,柵社と改称した。創刊号の巻頭論文《柵草紙の本領を論ず》(鷗外筆)は近代文芸批評史に重大な影響を与えた。…
【渋江抽斎】より
…[森鷗外]の史伝。1916年(大正5)に《東京日日新聞》《大阪毎日新聞》に連載。…
【殉死】より
…この殉死は,一部の知識人からは時代錯誤として批判的に見られたが,一般には美談とされ,やがて政府により軍国主義の風潮を鼓吹するために利用されることともなった。さらに重要な影響としては,森鷗外と夏目漱石とがこの事件に強い感銘を受け,鷗外は《興津弥五右衛門の遺書》や《阿部一族》を,また漱石は《心》を書いたことが注目される。それはこの事件が,高い西欧的教養を積んだ二人の文学者の内心に,近代文明と伝統的文化との関係についての深い反省をよび起こしたことを意味している。…
【神曲】より
…原題は《喜劇Commedia》(〈悲劇〉に対して円満な結末を迎えるため)であり,〈神聖なdivina〉という形容詞は後年に付加されたものである。なお,邦訳名《神曲》は森鷗外が《即興詩人》のなかに用いて以来,今日のごとく定着した。 ダンテは三位一体説を奉じて,その文学的発露をこの長編叙事詩に求めたため,1,3,10(=32+1),100(=102)などの数字(10は完全数)が作品の隅々にまで行きわたって,均斉のとれた大聖堂にも似た構造をつくりあげている。…
【スバル】より
…《[明星]》廃刊直後から,北原白秋,木下杢太郎,吉井勇,長田秀雄,石川啄木,平野万里,高村光太郎ら新詩社系の青年詩人が中心同人となって発刊。指導者に森鷗外を迎え,与謝野寛・晶子を顧問格とし,上田敏,永井荷風,谷崎潤一郎,小山内薫,石井柏亭,山本鼎ら,学問,小説,演劇,美術ほか各分野の第一線推進者の協力を得た。興隆する自然主義に対抗し,理想主義的・耽美派的な芸術思想・作品の結集する場として大きな役割を果たした。…
【即興詩人】より
…作品中のイタリア風物のリアルな描写は,美しい自然と人々の生活を今にいたるまで巧妙に伝えている。日本では,森鷗外がドイツ語版から,実に9年の年月をかけて翻訳した(1892‐1901)。その華麗な文体はあたかも独自の名作を創作したとも言えるほどである。…
【帝国美術院】より
…そこで19年9月5日,勅令をもって発布されたのが帝国美術院規程である。院長1人,会員15人で組織することが定められ,初代院長に森鷗外が任命された。会員には黒田清輝,高村光雲,竹内栖鳳らが任命されたが,横山大観と下村観山は辞退した。…
【ドイツ文学】より
…
【日本における受容】
日本におけるドイツ文学の受容は1880年ころから始まる。当時ドイツに留学した[森鷗外]は現地の文学現象を克明に日本へ伝え,世紀の転換期にかけて登場するシュニッツラーなどの作品をつぎつぎに翻訳紹介した。木下杢太郎がこれをひき継ぎ,その世紀末的土壌の上に〈パンの会〉や〈スバル〉などの耽美的情調の文学が日本に開花した。…
【都市問題】より
…しかし住民の生活環境は古いままであった。洋行時,ヨーロッパ諸都市で開始された下水道建設やペッテンコーファーの説に接した森鷗外は,ここに都市問題解決の中心を見いだし,〈市区改正は果して衛生上の問題に非ざるか〉(1889)として〈立都建家の改良〉を図るため下水道,住宅,清掃等生活環境改善の必要を力説した。また続いてせっかく横山源之助《[日本之下層社会]》(1899)や農商務省《職工事情》(1903)等の調査があったにもかかわらず,〈富国強兵〉の名のもとで,〈道路橋梁河川ハ本ナリ,水道家屋下水ハ末ナリ〉(東京市区改正意見草案,1884)とされた。…
【原田直次郎】より
…滞独時代の代表作に《ドイツの少女》《靴屋の阿爺(おやじ)》などがある。留学中に森鷗外と親交を結び,鷗外の《うたかたの記》に登場する日本人画工,巨勢(こせ)のモデルとなる。87年帰国。…
【フランス文学】より
…いわゆる〈没理想論争〉にからんで,小説が人間をあるがままに描くにはどうすべきかという観点から,とくに自然主義小説が関心の的にされた。森鷗外〈エミル・ゾラが没理想〉(1892)がその一例である。ゾラの考えた〈自然〉は,明治の日本では正当に理解されたとは言えないが,島崎藤村,田山花袋ら,やがて日本の自然主義を形づくる小説家たちは,ゾラやモーパッサンの作品から学ぶところ大きかった。…
【ペンネーム】より
…著者・執筆者が作品発表にあたって本名のかわりにつける作者名。筆名ともいう。中国では古くから,親のつけた実名・幼名のほかに自称の字(あざな)や雅号が文人のあいだで尊重されてきた。日本でもとくに詩文については雅号で互いに呼び合うという慣習が続いたが,その雅号もペンネームとみることができる。ヨーロッパでも近代になると,また日本でも明治時代になると,発表する作品ごとに筆名を変えるため一人で生涯におびただしい数の筆名をのこした作家・評論家が出現した。…
【舞姫】より
…[森鷗外]の短編小説。1890年(明治23)1月《国民之友》に発表。…
【万年艸】より
…《芸文》の後身。森鷗外が中心であるが,鷗外・上田敏の芸術サークルを背景とする。呼び物であった合評(近松《心中万年草》など)のほか,評論,詩歌,考証,翻訳に優れたものがある。…
【民謡】より
…【徳丸 吉彦】
【日本】
[名義]
日本で民謡の語が一般化したのは近代以降である。明治中期,作家の森鷗外や英文学者上田敏などが民謡の語を使用したのは,ドイツ語のフォルクスリード,英語のフォーク・ソングの訳語としてで,国文学者の志田義秀は1906年に発表した《日本民謡概論》で,民謡とは技巧詩・芸術詩を意味するクンストポエジーKunstpoesieに対するフォルクスポエジーVolkspoesieすなわち民間の俗謡の意であると述べている。以来,前田林外編《日本民謡全集》(1907),童謡研究会編《日本民謡大全》(1909)などが出て,民謡の語は徐々に普及するようになった。…
【めさまし草】より
…37号から《目不酔草》と表記。森鷗外の編集,めさまし社発行で,《[しからみ草紙]》の後身の位置を占める。斎藤緑雨,幸田露伴,鷗外の合評〈[三人冗語]〉,これに依田(よだ)学海,饗庭篁村(あえばこうそん),尾崎紅葉が加わった〈雲中語(うんちゆうご)〉は同時代批評の白眉とされる。…
【歴史小説】より
…とくに《平家物語》《太平記》などは,著者独自の歴史観さえその中ににじみ出させていて興味深いものがある。 明治以後の作家の中で特記すべきものは,後期の森鷗外で,《興津弥五右衛門の遺書》(1912)以後,《阿部一族》(1913),《大塩平八郎》(1914)など,この時期に優れた歴史小説を多く書いている。その中で最も有名な作品の一つ《山椒大夫(さんしようだゆう)》を発表した1915年に,彼は《歴史其儘(そのまま)と歴史離れ》という文章を書いているが,彼の歴史小説方法論として重要な文献である。…
【ロマン主義】より
…これを考慮しないと,日本のロマン主義の創始者を誰に見るか,という最初の問題で混乱が起きる。たとえば佐藤春夫は,明治ロマン主義の元祖であり,主体であるものとして,森鷗外をあげている(《近代日本文学の展望》)。彼はロマン主義の本質を,未知な世界や異常な事物などに対する好奇心などの伝奇性に求めているが,そこから森鷗外元祖説は導かれているのである。…
※「森鷗外」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」