源行家(読み)みなもとのゆきいえ

精選版 日本国語大辞典 「源行家」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐ゆきいえ【源行家】

平安末期から鎌倉初期の武将。本名義盛。為義の一〇男。以仁王(もちひとおう)挙兵令旨諸国源氏に伝えて源氏挙兵のきっかけをつくったが、頼朝にいれられず義仲と結んだが、これとも対立平氏滅亡後は義経と結んで頼朝と対立し、北条時定に和泉で殺された。文治二年(一一八六)没。

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デジタル大辞泉 「源行家」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐ゆきいえ〔‐ゆきいへ〕【源行家】

[?~1186]平安末期の武将。為義の一〇男。通称、新宮十郎以仁王もちひとおうの平氏討伐の令旨を受けて、各地の武士に伝達。義仲とともに入京、のち、頼朝と不和になった義経に協力し、和泉で頼朝の兵に殺された。

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改訂新版 世界大百科事典 「源行家」の意味・わかりやすい解説

源行家 (みなもとのゆきいえ)
生没年:?-1186(文治2)

平安末~鎌倉初期の武将。源為義の十男。本名義盛。源義朝の弟,頼朝の叔父熊野新宮に住んだので〈新宮十郎〉と呼ばれ,1180年(治承4)4月八条院蔵人(くろうど)に補せられたとき改名,以後は十郎蔵人と呼ばれた。同年5月に挙兵した以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を諸国源氏に伝え,挙兵を促したといわれる。源頼朝にいれられず,源義仲と結んで83年(寿永2)平氏西走後の京都に入り,従五位下備後守に任叙され,数日後備前守に遷任した。この際,勲功賞が義仲の従五位上左馬頭(さまのかみ)兼越後守に劣るとして忿怒し,閉門辞退したと《玉葉》に記されている。ほどなく義仲と対立,やがて京に接近した源義経と結び,平氏滅亡(1185)後,兄頼朝と対立した義経とともに頼朝追討宣旨を得る。義経と摂津大物浦(だいもつのうら)から船で西海に赴こうとしたが遭難,和泉に隠れた。翌年幕府の討手北条時定,常陸房昌明に発見され,5月12日梟首(きようしゆ)された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源行家」の意味・わかりやすい解説

源行家
みなもとのゆきいえ
(?―1186)

平安末期~鎌倉初期の武将。為義(ためよし)の子で、頼朝(よりとも)の叔父にあたる。本名義盛(よしもり)。保元(ほうげん)の乱(1156)に父為義が敗れてのち、熊野新宮(くまのしんぐう)に隠れ、新宮十郎と称した。1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)を奉ずる源頼政(よりまさ)に召し出され、名を行家と改め、山伏(やまぶし)姿となって諸国の源氏に以仁王の令旨(りょうじ)を伝えた。まもなく以仁王、頼政は敗北し、行家は尾張(おわり)、三河などで兵を結集し、平氏と戦った。鎌倉の頼朝に所領を請うたがいれられず、やがて行家は木曽義仲(きそよしなか)と結んだ。83年(寿永2)義仲とともに入京、後白河(ごしらかわ)法皇に謁し、従(じゅ)五位下備前守(びぜんのかみ)となった。しかしその後義仲と対立するに至り、紀伊(きい)に退いた。平氏滅亡(1185)後は頼朝と不和となった源義経(よしつね)に味方し、頼朝追討の宣旨を得た。自ら出陣した頼朝に対して、西海に赴こうと義経ともども摂津大物浦(だいもつのうら)(兵庫県尼崎(あまがさき)市)をたったが、大風にあって遭難、和泉(いずみ)に隠れたが、翌年関東の討手常陸房昌明(ひたちぼうしょうみょう)に攻められ、文治(ぶんじ)2年5月12日赤井河原で斬(き)られた。

[田辺久子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源行家」の意味・わかりやすい解説

源行家
みなもとのゆきいえ

[生]?
[没]文治2(1186).5.12. 山城,赤井河原
平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。為義の子。初名,義盛。保元の乱に敗れて父が殺されると熊野にひそみ,治承4 (1180) 年源頼政の召に応じて名を行家と改め,以仁王 (もちひとおう) の令旨を東国の源氏に伝えた。養和1 (81) 年美濃に拠って平重衡らと墨俣川で戦って敗れ,鎌倉の源頼朝を頼って所領を求めたが拒まれたため,信濃の源義仲と結んだ。寿永2 (83) 年入京。従五位下備前守となった。のち義仲と対立し紀伊に退いた。平氏滅亡 (85) 後,頼朝と対立した源義経に協力して頼朝追討の院宣を得,さらに四国の地頭に補せられた (『吾妻鏡』) 。しかし頼朝に追われ,和泉に隠れ住んだが捕われて殺された。

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朝日日本歴史人物事典 「源行家」の解説

源行家

没年:文治2.5.12(1186.6.1)
生年:生年不詳
平安末・鎌倉前期の武将。為義の10男。本名義盛。平治の乱(1159)後,熊野新宮に逃れ,新宮十郎と呼ばれた。治承4(1180)年,八条院蔵人となり,行家と改名。以仁王の平氏打倒の令旨を奉じ,頼朝,義仲らをはじめとする諸国の源氏の決起を促した。養和1(1181)年,尾張・三河の武士を率い,墨俣川で平氏軍と戦ったが敗北。鎌倉の頼朝を頼ったが不和となり,義仲の許に行き,寿永2(1183)年,義仲と共に上洛。備前守に補任された。その後,義仲とも不和となり,義経と結び,平氏滅亡後には後白河法皇より頼朝追討の宣旨を得たが,挙兵に失敗。和泉に潜伏していたところを発見され,誅殺された。

(澤野泉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源行家」の解説

源行家 みなもとの-ゆきいえ

?-1186 平安時代後期の武将。
源為義の10男。平治(へいじ)の乱のあと熊野新宮でそだつ。治承(じしょう)4年(1180)以仁(もちひと)王の令旨(りょうじ)を奉じ,諸国源氏に平氏打倒をよびかけた。源頼朝と不和となり,源義仲,ついで義経とむすんで頼朝に敵対。和泉(いずみ)(大阪府)近木(こぎ)に潜伏し,文治(ぶんじ)2年5月12日追討された。初名は義盛。通称は新宮十郎。

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旺文社日本史事典 三訂版 「源行家」の解説

源行家
みなもとのゆきいえ

?〜1186
平安末期の武将
為義の第10子。平治の乱(1159)後,熊野新宮におり,新宮十郎と号した。以仁王 (もちひとおう) の令旨 (りようじ) を諸国の源氏に伝え,源義仲とともに入京。のち源義経と結び頼朝打倒を企てたが失敗し,和泉国で殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の源行家の言及

【新宮[市]】より

…熊野三山を現地で支配した別当家の一つも新宮におり,田辺の別当家としばしば勢力を競った。源平合戦に東海で挙兵した源行家も新宮十郎と称するように,平治の乱後,この地に逃れて成長したといわれる。戦国時代には堀内氏が台頭し,紀州に進攻した織田信長,豊臣秀吉に忠誠を誓って熊野地方を支配したが,関ヶ原の戦で没落した。…

【源義仲】より

…反平氏の動きの活発なのをみて北陸道から都へ上る計画であった。飢饉で戦局が停滞するなか,源頼朝に疎外された叔父源行家が義仲と合流。83年(寿永2)3月,義仲は長子源義高(11歳)を人質として鎌倉の頼朝のもとに送る。…

※「源行家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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