コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

源行家 みなもとのゆきいえ

7件 の用語解説(源行家の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

源行家
みなもとのゆきいえ

[生]?
[没]文治2(1186).5.12. 山城,赤井河原
平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。為義の子。初名,義盛。保元の乱に敗れて父が殺されると熊野にひそみ,治承4 (1180) 年源頼政の召に応じて名を行家と改め,以仁王 (もちひとおう) の令旨を東国の源氏に伝えた。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

みなもと‐の‐ゆきいえ〔‐ゆきいへ〕【源行家】

[?~1186]平安末期の武将。為義の一〇男。通称、新宮十郎以仁王(もちひとおう)の平氏討伐の令旨を受けて、各地の武士に伝達。義仲とともに入京、のち、頼朝と不和になった義経に協力し、和泉で頼朝の兵に殺された。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

源行家 みなもとの-ゆきいえ

?-1186 平安時代後期の武将。
源為義の10男。平治(へいじ)の乱のあと熊野新宮でそだつ。治承(じしょう)4年(1180)以仁(もちひと)王の令旨(りょうじ)を奉じ,諸国源氏に平氏打倒をよびかけた。源頼朝と不和となり,源義仲,ついで義経とむすんで頼朝に敵対。和泉(いずみ)(大阪府)近木(こぎ)に潜伏し,文治(ぶんじ)2年5月12日追討された。初名は義盛。通称は新宮十郎。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

源行家

没年:文治2.5.12(1186.6.1)
生年:生年不詳
平安末・鎌倉前期の武将。為義の10男。本名義盛。平治の乱(1159)後,熊野新宮に逃れ,新宮十郎と呼ばれた。治承4(1180)年,八条院蔵人となり,行家と改名。以仁王の平氏打倒の令旨を奉じ,頼朝,義仲らをはじめとする諸国の源氏の決起を促した。養和1(1181)年,尾張・三河の武士を率い,墨俣川で平氏軍と戦ったが敗北。鎌倉の頼朝を頼ったが不和となり,義仲の許に行き,寿永2(1183)年,義仲と共に上洛。備前守に補任された。その後,義仲とも不和となり,義経と結び,平氏滅亡後には後白河法皇より頼朝追討の宣旨を得たが,挙兵に失敗。和泉に潜伏していたところを発見され,誅殺された。

(澤野泉)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

みなもとのゆきいえ【源行家】

?‐1186(文治2)
平安末~鎌倉初期の武将。源為義の十男。本名義盛。源義朝の弟,頼朝の叔父。熊野新宮に住んだので〈新宮十郎〉と呼ばれ,1180年(治承4)4月八条院蔵人(くろうど)に補せられたとき改名,以後は十郎蔵人と呼ばれた。同年5月に挙兵した以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を諸国源氏に伝え,挙兵を促したといわれる。源頼朝にいれられず,源義仲と結んで83年(寿永2)平氏西走後の京都に入り,従五位下備後守に任叙され,数日後備前守に遷任した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

みなもとのゆきいえ【源行家】

?~1186) 平安末・鎌倉初期の武将。為義の十男、義朝・為朝の弟。名は義盛。新宮十郎とも称す。以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨を諸国の源氏に伝えた。平氏滅亡後は、義経と結んだが、和泉で頼朝の兵に殺された。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

源行家
みなもとのゆきいえ
(?―1186)

平安末期~鎌倉初期の武将。為義(ためよし)の子で、頼朝(よりとも)の叔父にあたる。本名義盛(よしもり)。保元(ほうげん)の乱(1156)に父為義が敗れてのち、熊野新宮(くまのしんぐう)に隠れ、新宮十郎と称した。1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)を奉ずる源頼政(よりまさ)に召し出され、名を行家と改め、山伏(やまぶし)姿となって諸国の源氏に以仁王の令旨(りょうじ)を伝えた。まもなく以仁王、頼政は敗北し、行家は尾張(おわり)、三河などで兵を結集し、平氏と戦った。鎌倉の頼朝に所領を請うたがいれられず、やがて行家は木曽義仲(きそよしなか)と結んだ。83年(寿永2)義仲とともに入京、後白河(ごしらかわ)法皇に謁し、従(じゅ)五位下備前守(びぜんのかみ)となった。しかしその後義仲と対立するに至り、紀伊(きい)に退いた。平氏滅亡(1185)後は頼朝と不和となった源義経(よしつね)に味方し、頼朝追討の宣旨を得た。自ら出陣した頼朝に対して、西海に赴こうと義経ともども摂津大物浦(だいもつのうら)(兵庫県尼崎(あまがさき)市)をたったが、大風にあって遭難、和泉(いずみ)に隠れたが、翌年関東の討手常陸房昌明(ひたちぼうしょうみょう)に攻められ、文治(ぶんじ)2年5月12日赤井河原で斬(き)られた。[田辺久子]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の源行家の言及

【新宮[市]】より

…熊野三山を現地で支配した別当家の一つも新宮におり,田辺の別当家としばしば勢力を競った。源平合戦に東海で挙兵した源行家も新宮十郎と称するように,平治の乱後,この地に逃れて成長したといわれる。戦国時代には堀内氏が台頭し,紀州に進攻した織田信長,豊臣秀吉に忠誠を誓って熊野地方を支配したが,関ヶ原の戦で没落した。…

【源義仲】より

…反平氏の動きの活発なのをみて北陸道から都へ上る計画であった。飢饉で戦局が停滞するなか,源頼朝に疎外された叔父源行家が義仲と合流。83年(寿永2)3月,義仲は長子源義高(11歳)を人質として鎌倉の頼朝のもとに送る。…

※「源行家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

源行家の関連キーワード公猷法印安達盛長横山党粟田口国頼一文字則宗犬御前岡崎義実佐々木盛綱下河辺行平源義広

今日のキーワード

パラチオン、パラチオンメチル

パラチオンは無色で油状の液体、パラチオンメチルはコハク色の液体。ともに毒性が強く、有機リン系殺虫剤として使用された。50年代以降、稲の害虫被害を防ぐことが確認され、広く導入された。しかし、農民の中毒死...

続きを読む

コトバンク for iPhone