新宮市街西方にそびえる
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
「扶桑略記」「帝王編年記」「水鏡」などは創建を景行天皇の時とするが、明らかでない。境内は縄文時代の遺跡であり、古くから人々の生活の場であったことがわかる。当社南の
大同元年(八〇六)の牒(新抄格勅符抄)によれば、天平神護二年(七六六)速玉神は熊野牟須美神(熊野那智大社主神)とともに、紀伊国におのおの神封四戸が充てられた。神階は「三代実録」貞観元年(八五九)正月二七日条によると、熊野坐神(熊野本宮)とともに従五位下から従五位上、同年五月二八日条によると両神とも従二位に叙せられている。しかし同五年三月二日条では熊野早玉神だけ正二位を授けられ、「日本紀略」延喜七年(九〇七)一〇月二日条では熊野早玉神は従一位、熊野坐神は正二位とされ、この頃には早玉神が優位にあった。この延喜七年の叙位は宇多上皇が初めて熊野に御幸したことによるもので、このとき穀倉院綿三〇〇屯、調布二〇〇端を紀伊御幸の費用に充てている(「扶桑略記」同年一〇月三日条)。のち天慶三年(九四〇)二月一日熊野坐神とともに正一位に進叙している(長寛勘文)。
熊野の仏教化に伴い平安後期には熊野速玉神の本地は薬師如来とされ、その間吉野・大峯の修験興隆につれて、当社の神威もしだいに広められた。永保三年(一〇八三)頃までには本宮・新宮・那智の三山が共通の三所権現を祀ったと推測されるが、その頃までに新宮の修験組織も整備されたと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
和歌山県新宮(しんぐう)市新宮に鎮座。熊野速玉大神を主神とし、熊野夫須美大神(ふすみのおおかみ)、家津美御子大神(けつみこのおおかみ)ほかを12の神殿に祀(まつ)る。創建年代不詳。社伝では初め神倉(かみくら)山の天磐盾(あめのいわだて)とよばれる巨岩のある地に祀られ、景行(けいこう)天皇58年に現在地に奉遷したという。神倉山の旧宮に対して新宮とよばれる。766年(天平神護2)封戸4戸を寄せられ、859年(貞観1)従(じゅ)五位上、続いて従二位、863年正二位、『延喜式(えんぎしき)』では大社、940年(天慶3)正一位となる。熊野修験道(しゅげんどう)の発達とともに、早くより神仏習合して信仰され、11世紀末には熊野本宮大社・熊野那智(なち)大社とともに熊野三山ととなえられた。本社本地仏は薬師如来(やくしにょらい)とされ、院政期(1086~1179)以降には熊野詣(もう)での人でにぎわった。旧官幣大社。例祭10月15日には神馬渡御(しんめとぎょ)式があり、翌16日の御船祭には神輿(しんよ)神幸船での熊野川島めぐりがある。境内に神宝館があり、社蔵の古神宝類は非常に多く、蒔絵(まきえ)手箱、彩絵檜扇(ひおうぎ)ほか、装束72点が国宝に指定されている。また社宝の木彫速玉大神坐像(ざぞう)、夫須美大神坐像は国の重要文化財。表参道のナギの老樹は天然記念物。
[鎌田純一]
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…和歌山県熊野地方にある本宮,新宮,那智の3ヵ所の神社の総称。本宮(熊野坐(くまのにます)神社)は現在熊野本宮大社と称し,東牟婁(ひがしむろ)郡本宮町に,新宮(熊野早玉神社)は現在熊野速玉大社と称し,新宮市に,那智は現在熊野那智大社と称し,東牟婁郡那智勝浦町に鎮座する。 熊野は古くから霊魂観と縁の深い土地で,早くから山岳修行者の活躍が見られた。…
※「熊野速玉大社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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