熊野大神櫛御気野命は水と農業をつかさどる穀霊神で、もとは意宇川下流域に勢力を張る意宇氏(国造出雲氏)一族の部族神であったと推定される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
和歌山県熊野地方にある本宮,新宮,那智の3ヵ所の神社の総称。本宮(熊野坐(くまのにいます)神社)は現在熊野本宮大社と称し,田辺市に,新宮(熊野早玉神社)は現在熊野速玉大社と称し,新宮市に,那智は現在熊野那智大社と称し,東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦町に鎮座する。
熊野は古くから霊魂観と縁の深い土地で,早くから山岳修行者の活躍が見られた。天平時代の永興禅師(《日本霊異記》)と平安中期の応照律師(《法華験記》)とがとくに有名で,山間の修行場が随所に形成された。神社としては,《延喜式》神名帳に,熊野坐神社と熊野早玉神社とが掲げられ,前者がのちの本宮,後者がのちの新宮である。平安末期の《熊野権現御垂迹縁起》(《長寛勘文》所引)に〈結(むすぶ)早玉家津美御子と申し,二宇の社也〉とあり,同時期の《梁塵秘抄》には,〈紀の国や牟婁の郡(こおり)におはします,熊野両所は結ぶはやたま〉とあって,結(夫須美も同じ)と早玉(速玉も同じ)とが一社に併祀されていたようである。
本宮は〈家津御子(けつみこ)〉または〈家津美御子〉の神号も有したが,これは〈木つ御子〉の義で,材木の産出が重視されたための称である。仏教の影響を強く受けたのちは〈証誠(しようじよう)大菩薩〉との号も有し,阿弥陀如来を本地とした。〈証誠〉とは,阿弥陀如来の救いの真実を,如来の化身たる託宣者が証明することで,熊野本宮には神託をのべ伝えるという伝統が形成され,中世の一遍上人もこれを受けたのが一大転機となった。新宮の本地は薬師如来である。那智は結または夫須美として,早玉と併祀されていた神で,もと那智滝の修行場から発展したらしく,1083年(永保3)以後は,三山並立の一つとして独立の形をとってもいた(《熊野御幸略記》所載の〈熊野本宮別当三綱大衆等解〉)。那智滝は,高さ133mある大滝をはじめ,〈四十八滝〉があるというが,平安中期から修行場として尊ばれ,〈滝衆〉または〈滝本衆〉とよぶ修行者組織が見られた。花山法皇,文覚上人がここで修行をしたことが後世語り草となり,滝そのものを神体としてあがめることから,飛滝(ひりよう)/(ひろう)権現の号も成立した。熊野夫須美大神とも称し,千手観音を本地とした。
以上の三社がいわゆる熊野三山であり,その霊威は平安末期以後全国的にあがめられた。三社がそれぞれ共通の三所権現(本宮,新宮,那智)をまつったというのも特色の一つで,しかも四所明神などの眷属神,五所王子やいわゆる九十九王子などの王子神(御子神)を含む多数の神格の集合体となったのも特色である。四所明神は一万十万,勧請十五所,飛行夜叉,米持童子であり,五所王子は若(にやく)王子,児宮,子守宮,禅師宮,聖宮であり,これらを三所権現に合わせて十二所権現と称することも多かった。熊野社を地方に勧請する場合,本宮,新宮,那智のいずれか一社でも,あるいは三山でも,あるいは上記十二所権現でも,一様に熊野権現と呼ばれた。
こうした三山の集合祭祀を運営すべく,本宮に三綱(さんごう),別当,検校(けんぎよう)などが置かれたが,修験(しゆげん)組織としても高度に達し,1090年(寛治4)白河上皇熊野御幸の先達を務めた園城(おんじよう)寺の増誉が熊野三山検校職に補せられた。経済上でも,白河上皇が90年の御幸に際し田畑100余町を本宮に寄進したのに始まり,1119年(元永2)5ヵ国封戸寄進を経て,大治年間(1126-31)に3570町の社領を有するという盛大さであった。源平合戦に当たり活躍した別当湛増(たんぞう)の場合も,これら経済力と沿海に養成してあった熊野水軍の力にものを言わせてのことであった。豊臣秀吉が1585年(天正13)紀州平定ののち社領を全部没収したが,1601年(慶長6)和歌山城主浅野幸長は本宮,那智に各300石,新宮に350石の地を寄せ,下って享保年間(1716-36)将軍徳川吉宗から受けた多額の修理料と諸国勧化許可とにより,三山は地方金融機関としても勢を振るうようになった。明治維新の神仏分離の際の変動は大きく,数多くの什宝が失われた。本宮は1871年(明治4)国幣中社,1915年官幣大社となり終戦に及ぶ。新宮は1871年県社,1915年官幣大社となる。那智は明治初年熊野夫須美神社と号し,のち熊野那智神社と改称。1873年県社,1921年官幣中社となり,終戦時に及び,63年熊野那智大社と改称した。
本宮大社所蔵の文化財としては,木造神像4体,本宮八葉曼荼羅,鉄製大湯釜(建久9年銘),室町時代の奉納鏡,儀仗鉾,豊臣秀頼寄進の銅鉢,神額,釣灯籠など,速玉大社所蔵は,木造神体7体,太刀(銘正恒),神輿(室町時代),神幸用船(江戸時代),古瀬戸瓶子,同水瓶,御正体(永正11年銘)など,那智大社所蔵は,古文書(46巻11冊),熊野曼荼羅,那智参詣曼荼羅,那智山古絵図,木造役行者像,鏡類などである。
→王子信仰 →熊野信仰
執筆者:萩原 龍夫
島根県松江市八雲町熊野,意宇(いう)川の上流の地に鎮座。神祖熊野大神櫛御気野(かむろぎくまぬのおおかみくしみけぬ)命(素戔嗚(すさのお)尊の別名)をまつる。古くより当地方で出雲大社とならぶ大社で,出雲国造が奉仕し,806年(大同1)神戸25戸に10戸を加えられており,867年(貞観9)正二位,延喜の制で名神大社とされた。しかし,中世以降は出雲大社がひとり一般の信仰をあつめ,振るわなかった。明治の制で,はじめ国幣中社,のち大社となった。例祭10月14日。特殊神事に4月13日の御櫛祭,10月15日の鑽火祭(さんかまつり)(きりびまつり,また亀大夫神事ともいう),11月13日の御狩祭など,他にみられぬ神事がある。
執筆者:鎌田 純一
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島根県松江市八雲(やくも)町熊野に鎮座。祭神は神祖熊野大神櫛御気野命(かむろきくまののおおかみくしみけぬのみこと)。神名は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別名といい、『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこかむよごと)』にみえる。素戔嗚尊が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したあと、現社地に宮を定めたと伝え、古代出雲族の本拠地意宇(おう)川一帯の鎮護の社として信仰された。『延喜式(えんぎしき)』には「出雲国意宇郡熊野坐(くまのにます)神社名神(みょうじん)大」とあり、出雲国一宮(いちのみや)とされた。古来、出雲大社との関係が深く、出雲国造が奉仕。毎年10月15日、新嘗(にいなめ)祭のための鑽火(きりび)祭には、大社から燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりきね)を受けて古式による火鑽(ひきり)神事が行われる。旧国幣大社。例祭10月14日のほか、御櫛(みくし)祭(4月13日)、御狩(みかり)祭(2月・10月第4日曜)などがある。また、隣接して八雲温泉がある。
[菟田俊彦]
『篠原四郎著『熊野大社』(1969・学生社)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…松江市の南に接し,中央を北流する意宇川に桑並川,東岩坂川などが合流する。意宇川上流にある熊野大社は《出雲国風土記》にみえる古社で,出雲大社と並び称された。戦国期には尼子氏の居城月山(がつさん)城(広瀬町)への要路にあたり,熊野大社南方にあった熊野城は,毛利氏の侵攻により落城した。…
※「熊野大社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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