牛尾村(読み)うしおむら

日本歴史地名大系 「牛尾村」の解説

牛尾村
うしおむら

[現在地名]金谷町牛尾

竹下たけした村の東、しま村の北に位置し、大井川右岸に立地する。北東は駿河国志太しだ相賀おおか(現島田市)。大治四年(一一二九)頃と推定される年月日未詳の質侶牧四至注進状案(陽明文庫蔵宗性筆最勝講聴衆記紙背文書)質侶しとろ牧質侶郷内一一ヵ村の一つとしてみえる「宗塩村」は「宇塩村」の誤記とみられ、当地のことであろう。牛尾山(駿河山とも)の南に開けた村で、志戸呂しとろ五ヵ村の一(→嶋村。「掛川誌稿」に「潮山の山脚養福寺の門前に塩井あり、因て潮村と名く」とあり、現在も曹洞宗養福ようふく寺の境内に冷泉が湧く。


牛尾村
うしおむら

[現在地名]大口市牛尾

木之氏きのうじ村の北・西にあたり、南は大田おおた村、北は肥後国球磨くま郡人吉郷西裏にしうら(現熊本県人吉市)。牛尾川がほぼ中央を北東の国見くにみ山脈より蔦巣とびのす丘と高熊たかくま山に挟まれながら南西に流れ、川を挟んで田園が広がり集落が点在する。宝徳二年(一四五〇)一二月五日の牛屎院内光吉水田坪付(旧記雑録)には、伊集院三郎左衛門尉に宛行われた牛屎うしくそ院光吉の水田五町二〇代中のうちに、「牛尾」の内の「みなみ田」「井手のをもて」「かハら田」「こくし田」「ひらき」「山下のならひ」など一二ヵ所、計二町四反四〇代中が含まれていた。


牛尾村
うしおむら

[現在地名]西会津町下谷したたに

山口やまぐち村の南方、長谷はせ川右岸に位置し、同川沿いに西方にしかた街道が通る。河沼郡野沢組に属し、本村(上牛尾)の北七町ほどに端村雲在家くもざいけ(九門在家とも、現在の下牛尾)がある。昔、野沢のざわ平が湖水であった時代、当村は船着場であったといい、野沢如法によほう寺から当地までは船で南下し、以後陸路に代えて泥浮山どろぶやま越で現在の柳津やないづ町や会津若松市街地方面に向かったと伝える(「帳地志方」伊藤家文書)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では稲川いながわ郡のうちに牛尾とみえ、高九九石余。寛文五年(一六六五)の野沢組土地帳(西会津町史編さん室蔵)でもほぼ同高で、家数一七、男五三・女四九、馬一二。


牛尾村
うしのおむら

[現在地名]多古町牛尾

船越ふなこし村の南西に位置する。西は上総国武射むしや殿部田とのべた(現芝山町)。中世は牛尾郷とよばれた。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では高四四〇石、旗本松平(のち多古藩)領で舟越組に属した。同一二年の反別七通書(柏熊区有文書)によると、高一千二一七石余、反別は田一二一町余・畑一七町余。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高五四〇石余、松平領。弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳では多古藩領で、高一千二一七石余、家数九三。旧高旧領取調帳では幕府領八四二石余・旗本杉浦領三九〇石余。


牛尾村
うしおむら

[現在地名]輪島市町野町牛尾まちのまちうしお

鈴屋すずや村の北東に位置。牛ノ尾村とも称した(「三州志」など)。岩蔵寺寄進札(岩倉寺文書)によれば、明応九年(一五〇〇)の火災で焼失した同寺の再建のため「牛尾 九郎兵衛」が一貫三〇〇文を寄進している。天正一四年(一五八六)七月六日付の前年分の年貢算用状写(粟倉文書)に「下町野之内 牛尾」とみえ、高三一俵余、うち荒一〇俵余、残高二一俵余のうち七俵余は年貢免除、定約分一四俵余のうち四俵余は長意分で、九俵余が台所入。台所入のうち三俵余が米納、一俵三升三合は大豆納(大豆二俵)で、一俵二斗七升三合は金納(金七匁)であった。未進分三俵余のうち一俵余は同月一〇日以前に、二斗余は同月中に納めること、一俵は「三わり」にして納入すること、一斗余は差置くことが決められている。


牛尾村
うしのおむら

[現在地名]小城町大字池上いけのうえ字牛尾

下久須しもくす西南、牛尾山の西南麓の牛尾神社の門前に集落を形成。小字として牛尾・権現籠ごんげんこもり深底ふかぞこがある。正保絵図に村名がみえる。享和元年(一八〇一)写の御領中郡村附によれば、牛尾村の内に福地屋敷ふくちやしきがあり、福地姓の組被官などが居住する免税地である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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