牛車(読み)ギッシャ

デジタル大辞泉 「牛車」の意味・読み・例文・類語

ぎっ‐しゃ【牛車】

牛にひかせる乗用の車。主として平安時代、貴族階級を中心に使われ、身分により種類が異なった。唐車からぐるま雨眉あままゆの車檳榔毛びろうげの車糸毛の車網代車あじろぐるま八葉はちようの車など。御所車。うしぐるま。ぎゅうしゃ。

ぎゅう‐しゃ〔ギウ‐〕【牛車】

牛が引く荷車。うしぐるま。
ぎっしゃ(牛車)」に同じ。

うし‐ぐるま【牛車】

牛に引かせる荷車。
牛に引かせる屋形車。ぎっしゃ。

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精選版 日本国語大辞典 「牛車」の意味・読み・例文・類語

ぎっ‐しゃ【牛車】

  1. 〘 名詞 〙 牛にひかせる乗用の車。乗る人の位階、家格や正式の出行か否かなどによりその構造が種々に分かれ、名称も異なる。唐庇車(からびさしのくるま)、雨眉車(あままゆのくるま)、檳榔庇車(びろうびさしのくるま)檳榔毛車(びろうげのくるま)糸毛車(いとげのくるま)半蔀車(はじとみのくるま)網代庇車(あじろびさしのくるま)網代車(あじろのくるま)八葉車(はちようのくるま)、金作車(こがねづくりのくるま)、飾車(かざりぐるま)黒筵車(くろむしろのくるま)、板車などの種類がある。御所車。ぎゅうしゃ。
    1. 牛車(網代)
      牛車(網代)
    2. [初出の実例]「太后可鳳輦、而今日用牛車」(出典:日本三代実録‐貞観三年(861)二月一八日)

うし‐ぐるま【牛車】

  1. 〘 名詞 〙 ( 「うしくるま」とも )
  2. 牛に引かせる屋形車で、平安時代では貴人の乗物。地位や目的によって使い分けるが、構造上は唐庇車・檳榔毛車・糸毛車・半蔀車などがある。ぎっしゃ。
    1. [初出の実例]「うしぐるまを梨壺にゆるさん」(出典:宇津保物語(970‐999頃)国譲下)
  3. 牛に引かせる荷車。
    1. [初出の実例]「駄賃取并牛車(ウシグルマ)・せをひかるこ」(出典:子孫鑑(1667か)中)
  4. 千両箱を積んだをかたどって作った木製のおもちゃ。京都のみやげとして、北野神社、東寺、真如堂など社寺の祭礼に売られた。

ぎゅう‐しゃギウ‥【牛車】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 牛がひく車。牛にひかせる大きな荷車。うしぐるま。
    1. [初出の実例]「牛車 ギウシャ」(出典:広益熟字典(1874)〈湯浅忠良〉)
    2. [その他の文献]〔史記‐越世家〕
  3. ぎっしゃ(牛車)
    1. [初出の実例]「院参し給ふ時、腰輿ぎうしゃに召されて」(出典:義経記(室町中か)六)

ご‐しゃ【牛車】

  1. 〘 名詞 〙 ( 「ご」は「牛」の慣用音 ) 仏語。三車の一つ。牛にひかせる車。大乗を意味する。
    1. [初出の実例]「かの諸子の、牛車(コシャ)(〈注〉コウシノクルマ)をもとむるがために、火宅をいづるがごとし」(出典:妙一本仮名書き法華経(鎌倉中)二)
    2. [その他の文献]〔法華経‐譬喩品〕

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改訂新版 世界大百科事典 「牛車」の意味・わかりやすい解説

牛車 (ぎゅうしゃ)

中国では,子牛に引かせる車を犢車(とくしや)という。先秦時代から現在まで主として荷車として利用されている。二輪車で車輪は放射状のものが多い。乗物としての牛車は,漢代以前は貧者に限られ,後漢末の霊帝(在位168-189),献帝(在位189-220)のころから六朝の間に天子から士大夫にいたるまであらゆる階層の常用車となった。このためこの時代には,馬車は流行しなくなり,とくに優れた牛を賽牛と呼び,ときには千里の馬になぞらえて八百里の牛と称して珍重した。貴人の牛車は六朝墓の明器(めいき)に認められるように台車の上に屋と簾をつけており,民間の牛車は屋のない露車であった。もっとも北朝では騎馬の風はなお盛んであったが,柔然(蠕々)族のように牛を戦車として用いる部族もあった。老子が青犢車に乗って出関したという伝承があるためか,道士・女冠が青犢車や白牛車を好んだ事例もある。唐・宋になると牛車はもっぱら婦女の乗物となった。唐の玄宗時代に,宮中の女官の中には数百万貫を費やして金翠や珠玉で飾りたてることを競う者もあって,ついに牛が牽引できなくなったとか,南宋では宗室の婦女が袖中に香球を入れ,従者にも香球を持たせたので,こうした牛車が通り過ぎると砂塵がかぐわしかったとかの逸話が多い。日本の王朝時代に流行した牛車(ぎつしや)は唐代の風を伝えるものであろう。
執筆者:

1776年(安永5)長崎と江戸の間を旅行したツンベリーは,日本の街道の整備を激賞したあと,〈尤(もつと)もこの国では道路を破壊する馬車の用を知らないのだから……〉と書いている。しかし京都には古代から乗用の牛車(ぎつしや)が貴族層に用いられ,江戸時代には,そのはじめから雑車とも呼ばれる荷物運搬用の牛車が活動していた。牛車は京都のほか,江戸,駿府,仙台にもあり,摂津の御影(みかげ)などでも土石運搬用に用いられていた。京都,江戸について,牛車数が正確に知られるのは,享保初年以後である。京都,伏見およびその周辺には牛車用の牛が696匹あった。京組,伏見組の379匹は,東海道筋を大津より二条城に至る間,幕府年貢米を運ぶ公用を果たすことによって,大津の商人の俵物の60%を運ぶ権利が与えられていた。江戸では1636年(寛永13)江戸城外郭大工事の際,京都より呼びよせられ,土石の運搬に従事したが,のちに芝車町に居宅を与えられ,以後ときに公用を務めるほか,商人荷物の運送にあたった。1720年(享保5)には牛持8人,牛数300匹ほどあったが,以後両者とも漸次減少して,44年(延享1)には6人,197匹(うち,働牛153匹)となり,さらに1815年(文化12)には5人,128匹となっている。この享保初年の数字も,それ以前に比べればかなり減少したものという。

 牛車の積載量は京都では4~5石といい,江戸では1721年の記録では本荷200貫といい,26年以後の記録にも本荷200貫と記している。ともに当時の主要輸送手段である船積荷の陸上大量運搬の道具の意味をもっていた。江戸時代を通じて京都周辺および江戸の牛車は減少を続け,1879年の《共武政表》によれば京都市中には牛車なく,東京芝区には40台を数えるのみとなっている。ただし1875年の全国統計では府県別はわからぬが,全国計1707台の牛車が知られる。《共武政表》では大阪周辺と大阪~神戸間に最も多く存在している。

 牛車の車体・車輪ともに木製であり,京都江戸ともに牛車稼人の生活する土地の周辺で車作大工の手で作られている。裏店住いの車大工も知られており,徒弟修業によってその技術は身につけえたものと思われる。明治に入ると牛車と構造の同じ荷車は全国の過半の県で作られ,10年代には荷馬車は関東諸県を手始めに,全国に急激に増加していく。道路の舗装も,京都~大津間の二つの峠道では,車当りに2列の花コウ岩を敷く方法が,1700年代から行われている。
執筆者:


牛車 (ぎっしゃ)

牛にひかせる乗用車。平安時代以降おもに公家が用いた。構造や装飾の違いにより多くの呼称があり,乗る人の位階・家柄や公私用の別などによって用いる車の種類が定まっていた。宮城内に車を乗り入れることは禁じられていたが,〈牛車の宣旨(せんじ)〉を賜って許可された者は特別に車に乗って宮城門を出入りできた。装飾が華美に過ぎたり身分の下の者が乗用したりすることがあったので,しばしば過差禁止の対象となり禁令が出された。車の構造は,屋形,輞(おおわ),輻(や),轂(こしき),轅(ながえ),軛(くびき),軸(よこがみ),転(とこしばり),軾(としきみ)などの各部分でなりたち,雨天のときは生絹を浅黄に染めて油をひいた雨皮(あまがわ)をかけるが,これは三位以上のみに許された。牛車の中で最上格は唐庇車(からびさしのくるま)で,太上天皇,皇后,東宮,准后,親王,摂政,関白等が晴のときに用い,以下雨眉車(あままゆのくるま),檳榔毛車(びろうげのくるま),半蔀車(はじとみのくるま),網代庇車(あじろびさしのくるま),網代車等が続く。車箱に八葉の文をかいた八葉車は大臣から四,五位の者まで広く用いられ,色糸で車箱を飾る糸毛車(いとげのくるま)は女性がよく用いた。室町時代以降,牛車はしだいに用いられなくなった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「牛車」の意味・わかりやすい解説

牛車
ぎっしゃ

牛に引かせた屋形(やかた)の乗り物で、貴族が用いた。奈良時代以前にも車の制はあったが、平安遷都以来、京洛(きょうらく)を中心に道路の発達と路面の整備によって、牛車を盛んに乗用として利用するようになった。乗用の目的とともに、外観の装飾を華美にすることを競ったことが、賀茂祭(かもまつり)に用いた飾車(かざりぐるま)や、出衣(いだしぎぬ)といって女房の着ている衣装の一部を美しく重ねて御簾(みす)から垂らして見物の一つとしたことでも知られる。また朝廷は乗用の身分制限と華美な装飾を禁止する法令を、平安中期を中心に発している。しかし、武家の世になると牛車の乗用は衰え、特定の乗り物となり、一般日常には腰輿(たごし)を使用した。室町時代以降、大型化した新しい様式の御所車(ごしょぐるま)が出現した。

 牛車の構造は、軸(よこがみ)の両端に車輪をつけた二輪車で、人の乗る屋形(またの名を箱という)をのせる。この前方左右に長く前に出ている木を轅(ながえ)といい、その先端の横木、軛(くびき)を牛の首にかける。屋形の出入口には御簾を前後に懸け垂らし、内側に絹布の下簾(したすだれ)をつける。4人乗りが通常で、2人や6人の場合もある。乗り降りは榻(しじ)を踏み台とし、乗るときは後方から、降りるときは牛を外して前方からとする。男が乗るときは御簾を上げ、女が乗るときは御簾を下ろしている。御所車は車輪や箱が大きいため、榻で乗車は困難なので、五つの階段を設けた棧(はしたて)を用いるようになった。

 牛車の種類は、箱の構造、外装、彩色文様によって分けられ、その使用は官位・身分により、また正式の出行か否かによって使用の制限があった。

[郷家忠臣]

種類

(1)唐(から)の車(くるま) 唐庇車(からびさしのくるま)ともいい、屋根が唐棟(からむね)の破風(はふ)につくったところから名がつけられ、太上(だいじょう)天皇、摂政関白(せっしょうかんぱく)が大嘗会御禊(だいじょうえごけい)の行事、春日詣(かすがもうで)や、賀茂詣などといった晴の日に乗用して、もっとも尊重された。

(2)網代(あじろ)車 文(もん)の車ともいい、ヒノキやタケなどの薄板を網代に組み、袖(そで)を白く塗り、家の車の紋をつけた。大臣以下の公卿(くぎょう)が略儀遠行に用いた。

(3)半蔀(はじとみ)車 網代車の一種で、物見の懸戸が上下2枚からなり、下1枚を固定し、上1枚を外側へ上げて釣り、開閉できる釣り蔀、半蔀という構造になっている。

(4)檳榔毛(びろうげ)車 毛車(けぐるま)ともいい、ビロウの葉を細く裂いて毛のようにして屋根を葺(ふ)いた車。ビロウの産地は、島津庄(しょう)(鹿児島県)志布志(しぶし)村の檳榔島で、使用者は太上天皇以下四位以上、また僧綱(そうごう)や女房も用いる一般的な車。

(5)糸毛(いとげ)車 車の前後の庇(ひさし)に青・紫・赤などの総(ふさ)を垂らし、青糸毛車、紫糸毛車、赤糸毛車の別があったが、糸毛の由来については明確でない。内親王、三位(さんみ)以上の内命婦(ないみょうぶ)、更衣の貴婦人が乗用し、とくに赤毛の車を賀茂祭の使に用いた。

(6)八葉(はちよう)車 八曜車とも書く。網代を萌黄(もえぎ)色に塗り、その上に八葉の紋すなわち、九曜星紋を描いた車。紋の大小により別があり、大八葉は大臣・公卿・僧正・僧綱が日常に、小八葉は略儀なもので、小納言(しょうなごん)以下の地下人(じげにん)や僧侶(そうりょ)が用いた。

[郷家忠臣]


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「牛車」の解説

牛車
ぎっしゃ

牛に引かせた車の称。古代から荷物運搬用の車もあるが,一般的には平安時代から広くみられる屋根をもつ箱形の乗用車。構造は二輪車の上に乗用部分である車箱(輫(とこ))がおかれ,下縁両側から牛を入れる轅(ながえ)がつく。輫は四隅に柱をたて屋形(やかた)を形成し,側面には物見とよぶ窓を設ける。前後の出入口には簾(すだれ)を垂らし,乗降には榻(しじ)という踏台を用いた。平安時代から太上天皇・東宮・摂関以下の官人,女性などに広く利用されたが,14世紀頃から儀式用のもの以外はみられなくなる。車箱の構造,外装の材質,文様などによりさまざまな名称のものがあり,乗る人の身分や公私の別によって使用する種類が定められた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「牛車」の意味・わかりやすい解説

牛車【ぎっしゃ】

ウシにひかせた屋形車。日本では平安時代以後,貴人の乗物として用いられ,華美を競ったが,武家時代になって衰え,やがて使用されなくなった。唐庇(からびさし)車,糸毛(いとげ)車,檳榔毛(びろうげ)車,網代(あじろ)車,半蔀(はじとみ)車,八葉(はちよう)車など種類が多く,身分の上下や状況によって用いる車の別が定められ,車の並べ方,昇降にも細かい作法があった。
→関連項目駕籠車寄御所車

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「牛車」の意味・わかりやすい解説

牛車
ぎっしゃ

平安時代以後の公家が乗用とした車。牛に引かせ,4人乗りで,6人ぐらいまで乗れた。屋形の部分に豪華な装飾を凝らしたものが多い。官職により利用上の制限があり,臣下の場合,多くは摂関,大臣に許されたが,老病の出仕者や僧侶などにも許されている。牛車の使用許可書を「牛車宣旨」という。

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普及版 字通 「牛車」の読み・字形・画数・意味

【牛車】ぎゆうしや

牛がく車。

字通「牛」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の牛車の言及

【ウシ(牛)】より

…根栽文化圏での乳利用欠如という事実とともに,これらは東アジアの一特徴である。 他方,牛の動力利用は,牛車という形でも展開した。それは馬車利用よりも早く,メソポタミアでは,ウル初期王朝アバルギ王の墳墓(前2600)から牛車の遺物が出土している。…

【網代車】より

…平安・鎌倉時代に公家が使用した牛車(ぎつしや)の一種。屋形(車の箱)を竹やヒノキの薄板で網代に組んで覆ってあることからこの名称がある。…

【ウシ(牛)】より

…根栽文化圏での乳利用欠如という事実とともに,これらは東アジアの一特徴である。 他方,牛の動力利用は,牛車という形でも展開した。それは馬車利用よりも早く,メソポタミアでは,ウル初期王朝アバルギ王の墳墓(前2600)から牛車の遺物が出土している。…

【車】より

…そしてその誇示として生じてきたのが車馬行列である。 漢時代には,人の乗る車は馬車,荷物車としては牛車が使用されるが,馬車については前代と異なり,2本の轅の間に1頭の馬をつける形が現れる。1本の轅の車は,轅の両側に位置する馬の首にかけた革具が車軸に結ばれ,馬は常に首を絞められながら走らねばならなかったのに対し,2本の轅の車は,近代と同じ方式で馬の肩をめぐる革によって体重をかけながら全力で車を引くことができる。…

【ウシ(牛)】より

…根栽文化圏での乳利用欠如という事実とともに,これらは東アジアの一特徴である。 他方,牛の動力利用は,牛車という形でも展開した。それは馬車利用よりも早く,メソポタミアでは,ウル初期王朝アバルギ王の墳墓(前2600)から牛車の遺物が出土している。…

【車】より

…そしてその誇示として生じてきたのが車馬行列である。 漢時代には,人の乗る車は馬車,荷物車としては牛車が使用されるが,馬車については前代と異なり,2本の轅の間に1頭の馬をつける形が現れる。1本の轅の車は,轅の両側に位置する馬の首にかけた革具が車軸に結ばれ,馬は常に首を絞められながら走らねばならなかったのに対し,2本の轅の車は,近代と同じ方式で馬の肩をめぐる革によって体重をかけながら全力で車を引くことができる。…

【輸送】より

…輸送手段の開発は室町時代の日明貿易以後戦国後期,近世初頭にかけての渡海貿易などによって行われ,1000石積み以上の大船を生む。京都周辺では乗用の牛車(ぎつしや)の応用から生じたともいわれる物資運搬用の牛車(ぎゆうしや)を生み出す。以下,近世における物資輸送についてやや詳しくみておこう。…

※「牛車」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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