特攻という言葉から、神風特別攻撃隊に代表される、航空機による体当たり攻撃をイメージする人が多いかもしれない。
だが、空からだけではなく、海から敵艦に突撃する特攻隊もあった。海軍が開発した人間魚雷「回天」や小型のベニヤ板製モーターボート「震洋」、浦上敏朗本人が乗ることになっていた陸軍の「マルレ」(四式肉薄攻撃艇)などが、海の特攻兵器だった。
特攻は当初は志願だったが、戦局の悪化とともに全軍特攻に方針が変更。このため、浦上のように、ほぼ強制的に特攻隊員を志願させられた若者たちもいた。
彼が所属したのは、陸軍船舶隊(通称、暁部隊)の海上
更新日:
出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
第2次大戦中,旧日本陸海軍において,爆薬を装着した飛行機,潜航艇,舟艇などによって敵艦船などに必死の体当り攻撃を行う要員をもって特別に編成した部隊。特攻隊と略す。またこの攻撃を特攻といい,命中率をよくし,大きな破壊威力を発揮するのがねらいであった。
1941年12月ハワイ真珠湾攻撃のとき,特殊潜航艇(秘密保持上,〈甲標的〉と公称。この攻撃に使われた甲型は2人乗り,46トン,魚雷2本搭載)で臨時編成した特別攻撃隊が湾内に潜入攻撃し帰還しなかったが,これが特攻隊の名称を用いた最初のものである。しかし,この特攻隊の場合には一応,生還・収容の処置が講じられていたので,〈決死隊〉ではあるが〈必死隊〉ではなかった。その後,アメリカ軍の大型爆撃機は日本軍戦闘機の火力装備では撃墜が困難なため,戦闘機がこれに体当りして撃墜したり,爆弾を抱いたままアメリカ軍艦に突入する攻撃が各地で行われた。これら肉弾攻撃は,上からの命令によるものでなく,個人の自発的個別の特攻であった。
44年夏ごろには,第一線部隊とくに航空部隊では,戦局の危急を救うためには必死必殺攻撃以外に方法がないという気運が台頭してきた。大本営内でも,特攻戦法,特攻兵器の研究を進めていたが,優勢な連合軍の反攻の前に,通常の手段ではまったく対抗できなくなった状況のもとで,特攻戦法を逐次組織的かつ積極的に採用するようになった。44年10月,アメリカ軍のフィリピン上陸作戦が始まると,海軍の第1航空艦隊は神風(しんぷう)特別攻撃隊を臨時編成し,レイテ湾のアメリカ軍艦艇に突入した。25日以降連日の特攻に悩まされたアメリカ軍は,これを〈カミカゼ〉とか〈自殺機〉と呼んで恐れた。11月16日,陸軍特別攻撃隊が編成されて戦闘に加入し,また11月26日には薫空挺隊が,ドラグ飛行場破壊のため輸送機で強行着陸し,玉砕した。
また44年夏ごろから,特攻兵器として,〈回天〉や〈連絡艇〉の大量生産とこれを運用する戦法が逐次具体化されていた。〈回天〉は人間魚雷である。93式魚雷を改造し,1.55tの爆薬と潜望鏡,操縦装置をつけたもので,親潜水艦の背に4~6基が搭載され,攻撃に決してから1人の操縦者が各魚雷内に乗り組み,離艦発進後は,敵艦の動静に応じてみずから操縦潜航して敵艦に体当り攻撃する。全長14.75m,直径1m。44年11月カロリン諸島のアメリカ海軍基地ウルシー(ウリシ)泊地を攻撃して以来,主要作戦時に出撃した。連絡艇とは,水上を航行し敵艦船に衝突自爆するモーターボート。陸軍は〈○レ〉〈○八〉〈連絡艇〉と呼び,終戦時までに4000隻完成,海軍は同種のものを〈○四艇〉〈震洋〉と呼び,終戦時までに6200隻を完成させた。この特攻艇で部隊を編成し,陸軍は45年1月,フィリピン北部リンガエン泊地で,海軍は同年2月,コレヒドール島で初めて肉薄攻撃を行った。これら航空・水上・水中特攻と同時に,地上戦闘でも挺身斬込み戦法が高揚され,敵戦車に対しては爆薬を抱いて突進し,これと刺し違えて破壊した。
45年4~6月の沖縄作戦では,航空特攻が大規模に実施された。海軍の第1,第5航空艦隊と陸軍の第6航空軍,第8飛行師団は,通常の航空攻撃のほか,10回にわたる大規模な特攻と小規模な特攻を繰り返した。この作戦で陸軍は重爆撃機の胴体部分に3tの爆薬(桜弾という)を装着した特攻機を使用した。海軍は体当りグライダー〈桜花〉を用いた。〈桜花〉は親飛行機で目標付近まで運ばれ,空中で離脱発進し,敵艦に命中するものである(終戦時には地上から射出する型式のものができた。爆弾量は1200kg)。連合艦隊は,戦艦〈大和〉をはじめ残存海上部隊をもって海上特攻隊を編成し,航空総攻撃に呼応して沖縄泊地に突進させた。特攻隊は4月6日夜出発したが,7日昼,九州南西方海上でアメリカ艦載機の集中攻撃を受け,〈大和〉は沈没し,失敗した。5月23日夜には陸軍の義烈空挺隊が,沖縄のアメリカ軍使用飛行場を破壊するため強行着陸し,なぐり込み攻撃を実施した。
本土決戦のためには,全軍総特攻の思想に徹底して作戦を準備し,また新しい特攻兵器による多くの特攻隊が編成された。新特攻兵器としては,製作が簡単で操作容易なものが作られた。〈橘花〉は日本で初めての海軍ジェット機で,500kg爆弾を積み,敵艦に体当りすることを目的とした。〈剣(つるぎ)〉は構造を簡素化し量産を容易にした陸軍の体当り専門機で,250kg爆弾を搭載した。〈海竜〉は水中での安定をはかるため翼を備えた小型潜水艇で,19.3トン,2人乗り。艇首に600kgの爆薬を詰めて体当りするものだった。また,〈伏竜〉はすなわち人間機雷であり,簡易潜水具を装着して海中に潜伏し,敵上陸用舟艇を棒付きの15kg機雷で突き上げて爆破するものだった。
特攻出撃数とその戦果ははっきりしない。航空特攻による突入・未帰還機数は,フィリピン・硫黄島作戦までで陸軍約200機,海軍約300機,その後が陸軍約900機,海軍約1000機(うち桜花約50機),合計約2500機を下まわらない。戦果は少なくとも撃沈約40隻(護衛空母3を含む),撃破約350隻と見積もられる。初期の特攻機は戦闘機,爆撃機などであったがのちには練習機なども加わった。これら特攻機は装備を取り除いて大型爆弾をつけたため行動が鈍重となり,目標到達前に撃墜されることも少なくなかった。さらに操縦士の練度低下,飛行機の整備不良,アメリカ軍の対応措置の向上などで,航空特攻の戦績は逐次低下し,フィリピンでは突入率27%,沖縄では13%と判断された。また翼の空気抵抗のため爆弾に比べ衝突速度が低く,装甲の厚い大型艦は撃沈できなかった。回天は発進数約50基,戦果は撃沈大型油送船1を含む5隻以上である。また攻撃(延べ出撃31回)に参加した潜水艦15隻中8隻を失っている。○レ,○四はフィリピン・沖縄等に数千隻配備されたが,その過半が出撃前に失われたとされる。フィリピンでは約100隻以上が攻撃に参加,揚陸艇など約10隻以上に被害を与えたとみられる。その後アメリカ軍は対応措置を強化したため,戦果は著しく低下したと思われる。
執筆者:森松 俊夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
爆弾を装備したまま敵艦艇に体当り攻撃を敢行して生還を期せず,という太平洋戦争末期に日本軍が採用した戦法。1944年(昭和19)10月のレイテ沖海戦に際して,第1航空艦隊司令長官大西滝治郎海軍中将が発案,神風特別攻撃隊と命名し,敷島隊がはじめて米空母への突入に成功。その後特攻は陸軍航空隊にも採用され,人間魚雷回天,人間爆弾桜花,特攻艇震洋などの特攻兵器も投入された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新