日本の城がわかる事典 「獅子吼城」の解説 ししくじょう【獅子吼城】 山梨県北杜市(旧北巨摩郡須玉町)にあった山城(やまじろ)。城は同市江草の根古屋神社の背後の山(地元では城山と呼ばれている)にあった。甲信国境近くに位置していたため国境監視とともに、当時から佐久甲州街道(現在の国道141号線)の裏街道として知られていた若神子から長野県佐久市に至る道が通っていたことから、この街道を押さえる城としても機能した。築城は鎌倉時代末期に遡り、信田氏が居城としていたともいわれるが、築城時期、築城者および築城の経緯はわかっていない。応永年間(1394~1428年)には江草兵庫助信泰(または信康、甲斐武田氏13代の武田信満の三男)が居城としていたといわれるが、その後、甲斐武田氏の一族の今井氏が居城とした。1530年(享禄3)、甲斐守護で信玄の父の武田信虎が扇谷上杉朝興と結び、朝興の叔母で山内上杉憲房後室を側室に迎えようとしたことから、今井信是・信元は信虎と対立し、翌年に飫富兵部少輔らと甲府を出奔して大井信業・栗原氏ら甲斐の有力国人領主や信濃・諏訪の諏訪頼満(碧雲斎)を巻き込んだ大規模な反乱へと発展した。諏訪氏と今井氏ら反信虎勢力は信虎が整備した笹尾塁を陥落させて甲府へと進軍したが、同年2月2日と3月3日の合戦で信虎に敗れた。その後、今井信元は居城の獅子吼城に拠って信虎に抵抗したものの、同年9月に信虎に城を明け渡して降伏した。これにより信虎による甲斐統一が達成された。1541年(天文10)、信虎の嫡男・晴信(のちの信玄)は信虎を駿河に追放して家督を相続したが、晴信は信州峠、甲州佐久街道を押さえる要所として獅子吼城を整備した。信玄が整備した狼煙台の一つとしても機能していたようである。その後、1575年(天正3)の長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)で武田氏に壊滅的な打撃を与えた織田信長と徳川家康の連合軍は、1582年(天正10)に甲斐に侵攻して武田氏は滅亡。織田信長配下の河尻秀隆が甲府に入ったものの、同年6月2日の本能寺の変で信長が死去すると甲斐に一揆が起こり、河尻秀隆は討ち死にした。その後の武田氏の遺領をめぐって徳川家康と北条氏直が対立して両者が争奪戦(天正壬午の乱、甲斐における戦国時代最後の戦い)を繰り広げたが、徳川家康が新府城(韮崎市)を本陣としたのに対し、北条氏直は若神子城(北杜市)を本陣とし、獅子吼城も北条氏の拠点となった。同年9月、徳川家康配下の服部半蔵と旧武田氏遺臣の津金衆・小尾衆らは、北条勢の籠もる獅子吼城に夜襲をかけて陥落させている。その後、徳川氏と北条氏との間に和睦が成立して、徳川氏による甲斐支配が確定したが、その後間もなく獅子吼城は廃城となった。麓の根古屋神社境内に獅子吼城の案内板があり、城山の山頂に至る登山道が延びている。山頂には主郭(本丸)跡が、山腹には平らな石を積み上げた石垣で区画された多数の曲輪や斜面を掘削してくつられた堅堀や石塁、堀切、虎口などの遺構が残っている。城跡の石塁の多さが目を引くが、これらは北条氏の時代につくられたともいわれている。JR中央本線日野春駅からバスまたは車。◇江草城、浦城とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報