日本の城がわかる事典 「笹尾塁」の解説 ささおるい【笹尾塁】 山梨県北杜市(旧北巨摩郡小淵沢町)にあった戦国時代の城塞(崖端城)。同市史跡。信濃(長野県)との国境に近い、釜無川の左岸の七里岩の断崖上(標高759m、比高110m)に築かれていた山城(やまじろ)である。西側は七里岩の断崖絶壁、東側は深い溺れ谷の城沢にはさまれた要害で、塁(砦)と呼ばれるものの、6つの曲輪(くるわ)を持つ東西80m、南北260mの本格的な城塞だった(ただし、現存する城跡は武田氏滅亡後に、北条氏が整備したものとも考えられている)。甲斐の武田氏をはじめ常陸の佐竹氏、信濃の小笠原氏・平賀氏、陸奥の南部氏などの祖となった新羅三郎義光(源義光)が他国からの侵攻に備えて家臣に築かせた砦ともいわれるが確証はない。また、その築城の経緯は明らかにはなっていない。笹尾塁が歴史に登場するのは、甲斐守護・武田信虎(信玄の父)による甲斐統一前夜のことである。信虎は1530年(享禄3)、扇谷上杉朝興の叔母で山内上杉憲房の後室を側室に迎えて、扇谷上杉氏との関係を強化して北条氏と対抗しようとした。信虎はこれに反対した奉行衆の今井信是、信元と対立して、信是と信元は翌1531年(享禄4)1月、飫富兵部少輔らとともに甲府を去って御岳に立て籠もった。この反信虎陣営に有力国人の大井信業・栗原氏らが加わり、さらに信濃の諏訪頼満(碧雲斎)に援軍を求めたことにより大規模な争乱へと発展した。信虎はこれに対抗するため笹尾塁を取り立てて整備し、諏訪下社牢人衆(諏訪氏と対立する諏訪下社の金刺氏とも推定されているが不明)に立て籠もらせたという。しかし、笹尾塁は諏訪軍の侵攻により戦わず陥落。反信虎勢力は府中に進軍した。ピンチに陥った信虎は出陣して、翌2月2日の合戦で乾坤一擲の勝利を収めて大井信業らを敗死させ、3月3日の韮崎河原辺の合戦では栗原兵庫ら800余人を討ち取って壊滅的打撃を与えた。その後、今井信元は居城の獅子吼城(同市)に籠もり抵抗を続けたが、同年9月に降伏・開城し、信虎の甲斐統一が実現した。『甲斐国志』などによれば、武田晴信(信玄)の時代には、狼煙台の一つとして使われ、中腹の洞窟には鐘撞き場がつくられ信濃の危急を知らせた。その後、織田信長により武田氏が滅亡すると、徳川氏(家康)と北条氏(北条氏直)による甲斐・信濃をめぐる収奪戦(天正壬午の乱)が行われたが、北条氏は若神子城(同市)とともに笹尾塁を陣地として取り立て徳川氏に対抗した。その後、笹尾塁は徳川氏の支配下に置かれたが、その後間もなく廃城になったと考えられている。曲輪、堀切、土塁などの遺構が残っている。JR中央本線小淵沢駅から徒歩約40分。◇篠尾要害、笹尾城、笹尾砦とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報