玉屋町(読み)たまやまち

日本歴史地名大系 「玉屋町」の解説

玉屋町
たまやまち

[現在地名]南区玉屋町

常珎じようちん町・南綿みなみわた町の西にあり、南は南塗師屋みなみぬしや町。中橋なかばし筋を挟む南北の両側町で、北は周防町すおうまち筋から北へ半町ほど、南は八幡はちまん筋まで。水帳(大阪商業大学蔵)の延宝七年(一六七九)奥書写によれば、当町はもと南新みなみしん町と称し、道頓堀宗右衛門どうとんぼりそうえもん町と境を接する南に細長い町で、八幡筋より北側に屋敷二七、南側に一五があった。同年に八幡筋北側部分を一町として町名も玉屋町と変え、八幡筋より南の分は南塗師屋町の一部に繰込まれた。


玉屋町
たまやちよう

[現在地名]大津市中央ちゆうおう三丁目

太間たいま町の東に連なるなか町通の両側町。町名は天正一四年(一五八六)頃の大津築城に伴い、鉄砲玉の製造所が置かれたことに由来するという。元禄八年町絵図に町名がみえ、家数三二、町の南側中央に番屋(町之家)がある。寛文元年(一六六一)創業と伝える藤屋遠藤家は、元禄一五年(一七〇二)伏見宮家の仲介で京都御所の御用達商人に加えられ、内匠の官名を与えられた。


玉屋町
たまやちよう

下京区不明門通五条上ル

南北に通る不明門あけず通を挟む両側町。町の南側は、かつては六条坊門小路に面していた。

平安京の条坊では、左京六条三坊四保一五町中央の地。「坊目誌」は、「樋口斎院ノ址 玉屋町にあり。樋口の南東洞院の西と。則ち本町を中心とし。方一町の地たり。一世の斎院之に住す」と記し、源俊頼の「散木奇歌集」の次の歌をひく。

<資料は省略されています

寛永一四年(一六三七)洛中絵図をはじめ、寛文(一六六一―七三)頃までの絵図には「大堀突抜丁」とみえる。


玉屋町
たまやちよう

[現在地名]中区にしき二―三丁目

伝馬てんま町と蒲焼かばやき町との間をいい、北は富田とみだ町、南は鉄砲てつぽう町に隣接。伝馬町と接する角は交通の中心で、高札場が設けられたところから札の辻ふだのつじとよばれた。清須きよす時代の下本しもほん町の名称を慶長一六年(一六一一)名古屋移転後も用いたが、「宝玉」にちなんで貞享四年(一六八七)玉屋町に改称(金鱗九十九之塵)。当町一丁目は本町筋でいえば五丁目にあたり、昔万松ばんしよう(現大須)の惣門があったという。


玉屋町
たまやちよう

[現在地名]日野町大窪おおくぼ 玉屋町

堀端ほりばた町の西、日野大窪町の北西端に位置する南北に延びる町で、南は上松尾かみまつお町。火薬を扱う職人が集住していたと伝える(蒲生旧趾考)。延宝七年(一六七九)より日野大窪町岡本組に所属。城下町割では北今きたいま町通七ヵ町の一、早過はやすぎ町にあたる。寛保三年(一七四三)の合薬屋は四軒。安永四年(一七七五)には木地屋二軒、文化五年(一八〇八)には一軒(各年君ヶ畑氏子狩帳)


玉屋町
たまやちよう

[現在地名]近江八幡市玉屋町

大杉町おおすぎちよう通に沿う横町で、両側町。西は大杉町永原町元ながはらちようもと、東は鍛冶屋かじや町・江南えなみ町を限る。北は八幡堀に面し、元禄町絵図では当町付近で八幡堀が南北方向から東西方向に鉤の手状に折れる。町名は北方、八幡堀を隔てた堀内に鉄砲てつぽう町があることから、当町で鉄砲玉の製造にあたっていたためとか、あるいは女郎屋があったことにちなむと伝える(八幡町史)


玉屋町
たまやちよう

上京区千本通中立売上ル

南北に通る千本せんぼん通に西面する片側町。町の南は中立売なかたちうり通。平安京大内裏「大蔵省」の跡地(「拾芥抄」の宮城指図)

近世初期の聚楽第じゆらくだい遺構では西外郭にあたる。「坊目誌」には「古老の伝説に元和寛永の頃、玉屋亀屋と呼ぶ売茶店ありしと。蓋し町名此に因るならん」とあるが、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に町名はみえず、野畑となっている。


玉屋町
たまやちよう

上京区元誓願寺通六軒町東入

東西に通る元誓願寺もとせいがんじ通を挟む両側町、西側を六軒町ろつけんちよう通が通る。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「対馬町」、元禄末期洛中絵図には「玉屋丁」と現れる。町名は、この地にあった商家玉屋の屋号による。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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