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銭徳洪 せんとくこうQian De-hong

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

銭徳洪
せんとくこう
Qian De-hong

[生]弘治9(1496)
[没]万暦2(1574)
中国,明の学者。王陽明の郷里,浙江省余姚の人。名は寛。字は徳洪,また洪甫。号は緒山。王陽明の高弟で,王畿 (おうき) とともに陽明学の普及に努めた。王畿が抽象的思弁を重視し,王艮 (おうこん) が社会的啓蒙を主とするのに対して,よく師説を守り,実践的修養を重視した。現在見うる王陽明に関する資料の大部分は銭徳洪の編纂によるものである。

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世界大百科事典 第2版の解説

せんとくこう【銭徳洪 Qián Dé hóng】

1496‐1574
中国,明代中期の思想家。字は洪甫,号は緒山。浙江省余姚の人。王守仁(陽明)の門人。王畿とともに王門の〈銭王〉と並称された。王畿は師教を権法と理解し,銭徳洪は定法と受容した。この対立は人間性をめぐって天泉橋上で論議した〈四句教〉に最もよくあらわれている。この論争は後世の思想家に大きな影響を与えた。また,銭徳洪が《王文成全書》を編集した功績は大きい。著書に《緒山会語》があったが,今は伝わらない。【吉田 公平】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

銭徳洪
せんとくこう
(1496―1574)

中国、明(みん)代の陽明学者。名は寛、徳洪は字(あざな)。徳洪が通行し、のちに字を洪甫(こうほ)と改める。号は緒山(しょざん)。余姚(よよう)(浙江(せっこう)省)の人。王陽明(守仁(しゅじん))晩年の高弟で、王畿(き)と並称される。官は刑部(けいぶ)郎中に至ったが、獄に下され、出獄後は四方を周遊すること30年、もっぱら王学の伝播(でんぱ)に努めた。陽明死後、遺言や遺稿を収集し、『伝習録(でんしゅうろく)』や『王文成公全書』を完成させるための実務を担った。人柄は篤実穏健で、その思想や業績にも反映している。王畿とは陽明の四句教の解釈をめぐって立場を異にした。王畿は心本来の無善無悪なあり方を強調して四無説を主張したが、銭徳洪は四句教をそのまま遵守し、こうした心本来の姿に戻るためには、意念に生ずる善悪のうえに着実な修養を積むことが必要だと説いた。陽明は両者を可としたが、陽明の死後、王門は修証派、帰寂派、現成派の三派に分岐することになり、銭徳洪は修証派に、王畿は現成派に属す。修証派は、静坐(せいざ)などを重んずる帰寂派や、修養を軽視する現成派を批判して、日々の実践のなかで着実に修養を重ねて良知を実現しようとする。帰寂、現成両派の中間に位置する修証派は正統派ともよばれるが、しだいに朱子学に接近することになる。銭徳洪には『緒山会語』の著があった。[杉山寛行]

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