日本大百科全書(ニッポニカ) 「銭徳洪」の意味・わかりやすい解説
銭徳洪
せんとくこう
(1496―1574)
中国、明(みん)代の陽明学者。名は寛、徳洪は字(あざな)。徳洪が通行し、のちに字を洪甫(こうほ)と改める。号は緒山(しょざん)。余姚(よよう)(浙江(せっこう)省)の人。王陽明(守仁(しゅじん))晩年の高弟で、王畿(き)と並称される。官は刑部(けいぶ)郎中に至ったが、獄に下され、出獄後は四方を周遊すること30年、もっぱら王学の伝播(でんぱ)に努めた。陽明死後、遺言や遺稿を収集し、『伝習録(でんしゅうろく)』や『王文成公全書』を完成させるための実務を担った。人柄は篤実穏健で、その思想や業績にも反映している。王畿とは陽明の四句教の解釈をめぐって立場を異にした。王畿は心本来の無善無悪なあり方を強調して四無説を主張したが、銭徳洪は四句教をそのまま遵守し、こうした心本来の姿に戻るためには、意念に生ずる善悪のうえに着実な修養を積むことが必要だと説いた。陽明は両者を可としたが、陽明の死後、王門は修証派、帰寂派、現成派の三派に分岐することになり、銭徳洪は修証派に、王畿は現成派に属す。修証派は、静坐(せいざ)などを重んずる帰寂派や、修養を軽視する現成派を批判して、日々の実践のなかで着実に修養を重ねて良知を実現しようとする。帰寂、現成両派の中間に位置する修証派は正統派ともよばれるが、しだいに朱子学に接近することになる。銭徳洪には『緒山会語』の著があった。
[杉山寛行 2016年2月17日]