中国、後漢(ごかん)初期の西域(せいいき)支配に功績のあった武将。右扶風(うふふう)平陵(陝西(せんせい)省咸陽(かんよう)市)の人。字(あざな)は仲升。班彪(ひょう)の子で、『漢書(かんじょ)』の著者班固は兄、班昭は妹である。洛陽(らくよう)に出て学問を志し、苦労して母を養うが、武人として功をあげようと大望を抱いた。73年、竇固(とうこ)の北匈奴(きょうど)遠征に従軍し軍功をあげ、さらに鄯善(ぜんぜん)(チャルクリク)に使いし、不利な状況で「虎穴(こけつ)に入らずんば虎子を得ず」と少数の兵を励まし、ついにこれを服属させた。以後30余年、西域で活躍し、カスピ海以東の鄯善、于闐(うてん)(ホータン)、亀茲(きじ)(クチャ)など50余国のオアシス諸国家を服属させ、西域都護となり、定遠侯に封ぜられた。さらに部下の甘英を西方に遣わし大秦(たいしん)国との国交を試みた。102年、老齢による彼の上願と、妹昭の感動的な上書により帰国が実現するが、1か月後に病没。彼の尽力した西域経営は子、班勇に受け継がれたが、その後は人材なく、西域諸国の離反が相次いだ。
[飯尾秀幸]
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32~102
後漢の将軍。陝西(せんせい)省咸陽(かんよう)市の人。班固(はんこ)の弟。73年西域招撫(しょうぶ)の任を受け,鄯善(ぜんぜん),于闐(うてん)(ホータン),疏勒(そろく)(カシュガル),莎車(さしゃ)(ヤルカンド),亀茲(きじ)(クチャ),姑墨(こぼく)(アクス),温宿を帰服させた。91年西域都護となり,パミールの東西50余国を統轄し,後漢の西域経営を推進した。
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…それと同時に西域諸国を威服せしめ,74年(永平17)には前漢の例にならって再び西域都護をおき,西域の経営にあたらせた。このとき都護としてもっとも功績のあったのは班超である。彼は30余年を西域で過ごし,その間に50余国を漢に朝貢させただけではなく,不成功に終わったが部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)へ派遣したりした。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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