改訂新版 世界大百科事典 「琉球紙」の意味・わかりやすい解説
琉球紙 (りゅうきゅうがみ)
沖縄で漉(す)かれた紙をいう。1609年(慶長14)の薩摩藩の琉球征服以前の琉球王府で使用していた紙の多くは中国から輸入したものであった。とくに14世紀には福州(福建地方)と往来が多かったので,紙の主要産地でもあった福州から多量に輸入されたとも想像されている。薩摩藩に行政的に従った後は文書も同じ規格に迫られただろうと思われる。1686年(貞享3)に首里王府の命令で関忠雄(かんちゆうゆう)が薩摩に渡って,杉原漉方であった草野五右衛門から杉原紙(すぎはらがみ)や百田紙(ひやくたし)などの製法を学んで帰り,現在の首里金城町の大樋川の近くに製紙所を建てた。その技法を学んで,石垣島,西表(いりおもて)島の租納(そない)や古見(こみ),宮古島とその属島の多良間島や久米島などと各地に製紙所が設けられた。杉原紙や百田紙などの楮紙(こうぞがみ)の原料の栽培も奨励されたが,それでは足りず,1717年(享保2)には芭蕉紙(ばしようがみ)が開発された。芭蕉紙の原料は,バショウの芭蕉布に使用しないバサケーと呼ぶ部分なので,芭蕉紙と芭蕉布は同じ原料を使用しながら共存共栄することができた。芭蕉紙はバサケーの含む繊維の色があらわれ,独自の茶褐色の紙色をもつ。琉球王府のもとで,最高級の杉原紙は製紙に困難があったので,使用は一部に限られた。百田紙は王府に提出する文書や保存すべき文書に使われ,ほぼ楮紙の代名詞のように広く用いられた。百田紙は九州の八女紙(やめがみ)からおこり,九州一円で漉かれていた。一般の文書や日常生活に用いたのは芭蕉紙であった。そのほか宗教的用途の紙銭(しせん)に用いるうち紙(あんじ紙)には,稲わらを原料とする別の製紙が行われた。明治時代になって芭蕉紙は絶えたが,楮紙は近代化の改良を試みて,首里王府の紙漉御殿のあった宝口で生産が続けられた。しかし,1944年10月の戦火で焼失,77年に勝公彦が由緒ある宝口で製紙を始めて琉球紙を再興した。とくに芭蕉紙の製法を明らかにし,紅型(びんがた)染紙用紙,植物染紙,書道用紙,古文書の保存修理用紙などの用途を開拓して,注目されている。
執筆者:柳橋 真
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報