改訂新版 世界大百科事典 「琿春事件」の意味・わかりやすい解説
琿春事件 (こんしゅんじけん)
1920年9月から21年にかけ,日本軍が日本人居留民の保護を名目に〈在満〉朝鮮農民・独立運動家を虐殺し,間島侵略の口実とした事件。直接には9月12日と10月2日の2回にわたる中国人馬賊の琿春城襲撃をさす。1919年の三・一独立運動以後,海外の独立運動は急激に武装闘争の傾向を強め,ゲリラ部隊は北部国境地帯の襲撃をくりかえし,〈文化政治〉に脅威を与えた。日本は中国官憲に朝鮮独立軍弾圧を要求,執拗に外交圧力をかける一方,独立軍への追跡攻撃権を主張,直接進攻によりその根処地覆滅の機会をねらっていた。そのため日本は独立軍が琿春の日本領事館を襲撃した事件を捏造(ねつぞう)したのである。事件に利用されたのは中国人馬賊長好江一味であった。総督府に買収された長好江は,20年9月12日と10月2日の2回にわたり,約400名の兵力を指揮し,琿春城を襲撃,日本領事館の破壊と日本人居留民の殺傷を目標とした(第1次,第2次琿春事件)。日本政府は事件を誇大に粉飾,襲撃は日本に怨恨をもつ〈不逞鮮人団〉の妄動であり,背後に労農ロシアの思想的指導があると宣伝し,中国政府は治安維持能力がないと非難したが,日本人の生命財産を守るため出兵するという口実作りであった。こうして20年10月5日から朝鮮駐屯軍,シベリア出兵軍,関東軍など2個師団の日本軍が三方から同時に間島に進攻し,間島居住の朝鮮農民は〈不逞の徒〉として三光作戦の対象となった。朴殷植の《朝鮮独立運動の血史》は死者3106名と記している。日本軍を迎え撃った独立軍は,青山里戦闘(1920年10月20日)で勝利し独立運動の気勢をあげた。一方,中国の抗日姿勢はより明確になり,間島を中朝両民族の抗日統一戦線の核として突出させる歴史的要因ともなった。
→独立軍抗争
執筆者:姜 徳 相
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報