朝日日本歴史人物事典 「甘露寺親長」の解説
甘露寺親長
生年:応永31(1424)
室町後期の公卿。父は左大弁房長,康正2(1456)年から明応2(1493)年まで陸奥出羽按察使(都護)の任にあった。当時の硯学三条西実隆は甥,公卿の中御門宣胤は娘婿であるなど公家社会の実務的・文化的中心として朝儀の運営に関与した。応仁の乱(1467~77)による邸宅の焼失から勧修寺,石山寺,鞍馬寺などを転々としたが,文明9(1477)年帰京し朝廷へ再び出仕,廷臣の指導に当たった。寛正6(1465)年権中納言辞去以降,官に就くことを望まなかったが,明応1(1492)年周囲の強い勧めで権大納言に昇進したが翌年すべての官を辞し,8月に出家,法名蓮空。禁闕の変(1443)では乱入した賊徒に太刀を抜いて防戦したという逸話も伝わっている。和歌にも長じ,日記『親長卿記』を残している。<参考文献>井上宗雄『中世歌壇史の研究―室町後期』,『増補史料大成』37~44巻
(小森正明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報