(1)日本の中世において16世紀末の兵農分離以前の兵,とくに雑兵(ぞうひよう)をいう。中世社会は兵農未分離で,武士は農村に土着し,農民もみずから武装しているのが常であり,ともに兵として徴発された。ルイス・フロイス《日欧文化比較》が〈われわれの間では完全に武装具を着けなければ戦に赴くこととは見えない。日本では武装したというには,首に首当てを着けただけで十分である〉といっているのは,16世紀ヨーロッパの専業武士団と違う日本中世の農兵,とくに雑兵の特徴をよく示している。また〈われわれの王や隊長は兵卒に報酬を支払う。日本では戦争の続いている間,食べたり,飲んだり,着たりすることは各人が費用を賄わなければならない〉とか,〈日本では各人の百姓が彼の衣類や食糧を背中につけて運ぶ〉と指摘しているように,中世の兵は武器・食糧自弁が原則であった。
領主・大名の軍事動員をうけると,武士は所定の軍役として人馬や武器類を用意するほかに,従軍期間中の人馬の食糧・衣類やそれを運搬する陣夫も,必要なだけ自費で調達しなければならなかった。豊臣政権は兵と農を分離し,武士の土着や農民の武装を原則として否定し,兵は武士に限り,農民はあくまでも非戦闘員として徴発するとともに,兵の食糧自弁を廃して,武士から陣夫農民にいたるまでを所定の軍役数に含め,これに一定の扶持米(ふちまい)を給与する体制をとった。
執筆者:藤木 久志(2)近世の幕末期には,農民を組織した兵隊をいう。城下町に集住して窮乏し弱体化した武士を土着させ,農民を兵員としても統率するという武士の再強化を意図する土着論は,江戸時代を通じて存在した。熊沢蕃山や荻生徂徠らの論が知られているが,実現しなかった。農兵が現実的に構想されるのは,外国船が日本近海に現れ,また農村で一揆が頻発する,幕末の内憂外患を迎えてからである。
幕府では1849年(嘉永2)伊豆韮山代官江川太郎左衛門が農兵取立てを建議したことが知られているが,実現するのはようやく63年(文久3)になってからである。しかし外圧を深刻に受け止めた諸藩では,水戸藩が55年(安政2)に着手し,相模三浦半島東岸の外警の第一線に当たった長州藩も,同年現地に1000人規模の農兵を組織した。農兵は弱体化した幕藩領主の軍事力を補完する役割を担ったのである。このほか,幕末の内憂外患により,とくに世直し一揆の激発を深刻に憂慮する豪農,村役人によって組織された農兵もある。たとえば66年(慶応2)の武州一揆にたいして,こうした豪農の組織した農兵が積極的に鎮圧を行っており,農兵の性格の一面を示している。農兵隊のほとんどは平時には農業に従事する文字どおりの農兵であり,恒常的な隊をなしていないが,有志者を募り強固な隊組織を形成した,有志の草莽(そうもう)諸隊も見られる。長州藩の奇兵隊や遊撃隊などの諸隊は藩の正規軍に編入されたが,有志諸隊の代表的事例であり,下級武士,農民,町民,被差別部落民を動員し,戊辰戦争の軍事力の一翼となり,討幕派最強の軍隊となった。このほか,各地の郷士や豪農の率いる草莽勤王隊が戊辰戦争の官軍側に参戦した。しかし戦乱終了後は,こうした有志隊は整理され解隊される運命にあり,長州藩では69年(明治2)に,これに反発する諸隊兵士の脱隊騒動が起きた。
執筆者:井上 勝生
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江戸時代末期に幕府や諸藩が海防や治安維持の目的で設けたもので、主として農民から募集し、大半が銃隊に組織された。すでに江戸時代中期に地方知行(じかたちぎょう)が消滅し、武士の城下町居住が一般化するとともに、彼らの生活は奢侈(しゃし)となり士風の退廃が顕著となった。武士土着論の農兵策は熊沢蕃山(ばんざん)、荻生徂徠(おぎゅうそらい)、藤田東湖(とうこ)らによって説かれたが、実施に至るのは幕末期のことで、もっぱら海防と、それに伴う財政負担を農民・町人に転嫁するためからであった。幕府の寄合(よりあい)筒井政憲(まさのり)は1846年(弘化3)、48年(嘉永1)の二度にわたり、異国船無二念(むにねん)打払令の緩和撤回を主張する保守派の強硬論に反対し、打払令よりも国防強化のために農兵の設置が肝要であると幕府に上申したがいれられず、46年以来、伊豆韮山(にらやま)代官江川太郎左衛門(たろうざえもん)英龍(ひでたつ)の行った、海防軍事再編成のための農兵設置案の建言も許されなかった。
その後1861年(文久1)、江川代官所の農兵設置の建言は海防から農村の治安維持策に転換し、幕府も農兵制についての議論を深め、各界の諮問を求めた結果、63年江川代官所をはじめ幕府の諸代官に農兵設置を許可した。江川代官所の農兵はおもに地主・豪農層の子弟を選び、編成は「隊伍(たいご)仕法」によると、一小隊25名とし、小隊には頭取(とうどり)2、什兵(じゅうへい)組頭2、差引(さしひき)役1、計5名の役方が置かれ、残る20名を5名ずつの伍卒(ごそつ)組とし、組ごとに一名の小頭(こがしら)役を置いた。隊は十数か村以上を連合した組合村ごとに置かれ、100名につき1名の割合で募兵された。農兵設置の資金は、地主・豪農層の献金、鉄砲とその付属品も彼らの献上によるもので、これを隊ごとに貸与されるという形式をとった。江川代官所の農兵は1866年(慶応2)武州世直し一揆(いっき)の蜂起(ほうき)に際し鎮圧軍の中核となって活躍し、農兵設置の重要な役割を果たした。
諸藩における農兵設置は1854年(安政1)土佐藩が着手し、役方は浪人・名主・郷士、兵士は農民・水夫・猟師で編成された。水戸藩も翌55年に着手し、紀州藩では63年洋式銃隊の訓練を実施し、同年長州藩では四国連合艦隊の攻撃に備えて奇兵隊をはじめとする諸隊が結成され、高杉晋作(しんさく)の指揮する奇兵隊は第二次征長戦に抗し、幕府軍に圧勝した。関東では江川代官所農兵隊の一揆鎮圧をみて諸藩が農兵を設置するなど、維新期には全国で大半の藩が農兵をもつに至った。
[大舘右喜]
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幕末~明治初年に組織された農民兵。弱体化した幕藩体制の軍事力の補強のため,武士を農村に土着させ事が起きたときに農民を率いて戦わせようという武士土着論は,江戸前期の熊沢蕃山(ばんざん)らによってしばしば説かれたが,実際の農兵組織は幕末期になって実現した。幕府は伊豆国韮山(にらやま)代官江川太郎左衛門英竜の1849年(嘉永2)の海防農兵建議は採用しなかったが,61年(文久元)の江川英敏による村方の治安維持に力点をおく農兵制建議をうけ,63年に農兵取立てにふみきった。この江川農兵をはじめ幕領の農兵は,しだいに豪農層の治安維持の目的に使われ,66年(慶応2)の武州一揆などの鎮圧に威力を発揮した。農兵は諸藩でも藩の強力な指揮下で組織された。
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…この事件で藩も家政向き不取締りとして35年(天保6)領知を半減された。 幕末期公武合体派に敗れた尊攘派平野国臣,美玉三平らが京をのがれて但馬に潜伏したが,折から地主豪農商層,村落支配者層のもとで組立てが進められていた農兵が,平野らの討幕運動に組み込まれていく。63年(文久3)天誅組の挙兵に呼応して,北垣晋太郎,西村庄兵衛ら多数の村落支配者層に動員された農兵が生野代官所を占拠した。…
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