田之浦村
たのうらむら
[現在地名]福江市田ノ浦町
久賀島の南西部にある。福江島との間は田ノ浦瀬戸で、古代唐への渡海地として知られる。応仁二年(一四六八)天与清啓が明に渡海した際の記録「戊子入明記」に「五島田浦内千坂」とみえ、直径一尺五、六寸ほどの大竹があるという。おそらく船の修理用材として調達されたのであろう。千坂は久賀島の中世の称とされ、田浦のうちとされていた。嘉靖四〇年(一五六一)の「日本図纂」および同年頃の「万里海防図論」の日本地図、また万暦五年(一五七七)の「図書編」の日本国図(文淵閣四庫全書子部)に「達奴烏喇」と記される。「図書編」の日本国序本文には「五島至山口必由平戸経過其奥為乃路(中略)為達奴烏喇」とみえ、航路の通過点であった。
近世は久賀村と一括して扱われる場合が多い。寛永一四年(一六三七)の久賀掛畠帳(青方文書)に田之浦村とみえ、本畠方四反余・分米三石余とあるほか、新本畠方・新野畑方分が記される。
田之浦村
たのうらむら
[現在地名]志布志町田之浦
志布志郷内之倉村の北、鰐塚山地南部山間に広がる。西は松山郷尾野見村(現松山町)、北は大隅国囎唹郡末吉郷南之郷村(現末吉町)。中央を安楽川が南に流れ、川沿いの谷間に集落や田畑が集中していた。観応二年(一三五一)八月一九日の畠山直顕寄進状写(大慈寺文書)に救仁院のうちの「田浦条」がみえ、串良院内岩弘名(現東串良町)とともに大慈寺に寄進された。応永一三年(一四〇六)六月五日には島津元久から岩弘名・尾見条とともに田浦条が同寺に再寄進されている(「島津元久寄進状写」同文書)。
田之浦村
たのうらむら
[現在地名]倉敷市下津井田之浦・下津井田之浦一―二丁目
吹上村の東、鷲羽山の西に位置し、南は瀬戸内海に面する。下津井四ヵ浦の一つ。田土浦座神社が式内社に比定され、地名は田土浦が田之浦に誤記されたものともいう(東備郡村志)。元和三年(一六一七)の児島郡物成帳には「下津井之内」田浦村とあり田畠合せて高八二石余・加子米四石九斗とある。享保六年(一七二一)の田畠五町八反余、池三、家数一一六・人数六六二、船四三(備陽記)。文化二年(一八〇五)の家数三〇〇・人数一千六三四、村の長さ六町二五間、浜辺九九間半(「諸御用留帳」西尾文書)。
田之浦村
たのうらむら
[現在地名]平戸市大久保町
平戸村の北方、大久保の北西部に位置する。半島状地形の北にあり、北に開く入江の沖に横島、さらに奥に度島がみえる。「日本後紀」延暦二四年(八〇五)六月八日条にみえる松浦郡田浦を当地に比定する説がある。第一六次遣唐使船に空海・最澄が乗船していたことから地内に弘法大師渡唐記念碑が建つ。フロイス「日本史」にタノウラ(Fanauraとするのは誤記であろう)とみえ、一五六四年(永禄七年)キリシタンの籠手田安経の夫人ドナ・イザベルが男女の親族すべてを伴ってその所領である平戸島の当地に赴いたという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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