田村氏(読み)たむらうじ

改訂新版 世界大百科事典 「田村氏」の意味・わかりやすい解説

田村氏 (たむらうじ)

田村という名字の氏は各地に存在するが,有名なのは中世の陸奥国田村荘(福島県田村市など)の荘司で,近世の仙台藩の支藩一関藩(岩手県一関市)主だった田村氏である。近世の系図坂上田村麻呂の後裔とするが,鎌倉時代の田村荘司は秀郷流藤原氏,15,16世紀の田村氏は平姓であり,南北朝期に家の断絶交替があったものか不明。南北朝内乱では田村荘内の宇津峯城に拠って南朝側として活躍,1396年(応永3)には田村荘司則義・清包父子が下野小山義政の遺子若犬丸をたすけて挙兵し,鎌倉公方足利氏満の討伐を受けた。ついで田村義顕の永正年中(1504-21)三春(みはる)に築城,戦国後期には1541年(天文10)隆顕が伊達稙宗息女をめとり,79年(天正7)冬清顕の息女愛姫が伊達政宗に嫁ぐなど,伊達氏との関係を強めていった。86年10月の清顕の死後,家中が相馬党と伊達党に分かれて争ったが,88年8月ようやく伊達政宗によって清顕の甥の宗顕が後嗣に定められ,ここに伊達氏への服属が決定的となった。宗良(伊達忠宗三男)のとき3万石を与えられ,その子建顕の1682年(天和2)一関に移封,明治にいたり子爵となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「田村氏」の意味・わかりやすい解説

田村氏
たむらうじ

戦国期~江戸末期の武家。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の子孫と伝えるが、戦国期田村氏は平姓を称している。16世紀初めに陸奥(むつ)国田村郡守山(もりやま)(福島県郡山(こおりやま)市)から三春(みはる)(同県三春町)に移った。天正(てんしょう)期(1573~92)の当主清顕(きよあき)は佐竹岩城(いわき)、蘆名(あしな)各氏の連合に対抗し伊達(だて)氏と結び、清顕死後は伊達政宗(まさむね)の保護下に入ったが、1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉の奥羽仕置により所領を没収された。1652年(承応1)政宗夫人陽徳院(田村清顕娘)の意志により、仙台藩主伊達忠宗(ただむね)(政宗子息)は三男宗良(むねよし)に3万石を与えて田村家を再興した。いわゆる伊達騒動は、宗良の仙台藩後見役時のことである。宗良の子建顕(たけあき)の代に磐井(いわい)郡一関(いちのせき)(岩手県一関市)3万石に移り、以後幕末に至った。

[小林清治]

『『三春町史』全8巻(1975~78・三春町)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田村氏」の意味・わかりやすい解説

田村氏
たむらうじ

江戸時代の一関藩主。坂上田村麻呂の後裔で,陸奥国田村郡に住し,田村氏を称したという。南北朝時代には南朝方に属し,室町時代中期に没落したが,戦国時代の清顕のとき,三春城に拠って伊達氏と結んだ。豊臣秀吉の小田原征伐後,領地を没収されたが,江戸時代に伊達宗良が田村氏を起し,伊達氏の支藩として承応1 (1652) 年岩沼3万石を領し,建顕のとき,天和2 (82) 年一関に移った。明治になって子爵。

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