日本大百科全書(ニッポニカ) 「田植儀礼」の意味・わかりやすい解説
田植儀礼
たうえぎれい
田植は単なる農作業ではなく、農作業の成果があがるよう神霊を迎え祭る行事でもあった。神祭りは田植の始めと終わりに行われるのが普通で、神を迎える場所は田であったり家であったりする。田での神祭りは水辺なり田の畔(あぜ)の一部なり田の真ん中なりに、クリやホオの枝などを立てて神の依代(よりしろ)とし、そこへ苗三把などを植えたりする。家での神祭りも庭先にススキの穂を立てたり、竪臼(たてうす)に赤飯を供えたりする。家のエビス様や先祖様に供え物をする所もある。田植仕舞の神祭りも、同じく田の中央にナラの木など立てて行う所もあり、田の一部分に一把の苗を七株に分けて植えたりする所もある。家ではよく洗った苗をお釜(かま)様や荒神(こうじん)様、エビス様などに供える。この田での祭りと家でのそれとあわせ行う所では、昼間は田で、晩には家で行うものもあれば、朝のうち家の神に苗を供え、のちにその苗を水口(みなぐち)に植えたりもする。なお、田植始めの神祭りに引き続いて一般の田植が行われる場合のほか、初田植の神祭りは一般の田植と引き離して、しばしば特定の日に行われる場合がある。田植仕舞の神祭りには、家ごとに行うもののほか、集落あるいは組内全部の田植の終わったのち行うものがある。
田植はこのように改まった行事であり、田植の手伝いに集まった人々に対し、昼飯、晩飯それに中間食のコビルなどをふるまう。それも、よくきな粉をまぶした御飯をホオの葉でくるんだものなど特殊なものが出された。田植仕舞には手伝ってもらった人々を招いて祝宴を開くことはもちろんである。また田植には早乙女(さおとめ)をはじめ男たちもみな真新しい装いで出るもので、この日を目当てに一家の者の仕事着を調えることは、その家の主婦の欠かせない務めとされていた。
一家のもっとも大きい田の田植、ことに大地主の広い田地の田植などは、大田植とよばれ、大ぜいの人が集まってことににぎにぎしく行われた。早乙女らによって田植唄(うた)が歌われ、太鼓や笛で囃(はや)す者なども出た。田植のそばを通りかかった人に早乙女が田の泥を打ち付け、逃げるとどこまでも追い回し、泥を塗られたほうもこれを縁起よしとするような風がほうぼうにあったが、大田植の際にもよく行われた。
中国地方ことに島根・広島両県の境界に近い地方では、花田植、囃し田植などという特別ににぎにぎしい大仕掛けの田植が行われた。田植にはすぐ直前の代掻(しろか)きを必要としたが、広い田地に美々しく飾りたてた牛数十頭を入れて代掻きに参加させる。縦・横・斜めさまざまな模様を描くように掻き回る。総体の指揮者サゲの下に、田植唄を歌って田植を進める早乙女、歌大工などという唄の音頭とりもあり、鼓、太鼓、簓(ささら)、笛など大ぜいの囃し方もいる。田の畔には田の神を祭る祭壇が設けられている。農作行事、神祭り行事というよりは一種の観光事業としてもてはやされている。一集落の行事としてはまかないきれるものではなく、近隣数集落が共同して、一般の田植のすべて終わったあとの特定の日に行われている。
[最上孝敬]
『柳田国男著『分類農村語彙 上巻』(1948・東洋堂)』▽『文化庁文化財保護部編『田植の習俗1~5』(1965~70・平凡社)』