田辺南竜(読み)たなべなんりゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田辺南竜」の意味・わかりやすい解説

田辺南竜
たなべなんりゅう

講釈師。

初代

(1810―65)本名荻沼作内。下総(しもうさ)佐原生まれ。初代田辺南鶴(なんかく)門下。『甲越軍記(こうえつぐんき)』などを得意とした。

[延広真治]

2代

(1839―84)本名松野房次郎。初代門人。御家人(ごけにん)の出。修羅場(ひらば)を得意とし、「のんのんずいずい」を連発するので、「のんのん南竜」とよばれた。『檜山実記(ひのきやまじっき)』をつくったといわれる。

[延広真治]

3代

生没年、伝未詳。本名高宮半治郎。2代目の実弟とも弟子ともいわれる。またあだ名を「しゃも」とよばれた燕慶(えんけい)が3代目を僭称(せんしょう)したが、代数には数えない。

[延広真治]

4代

生没年、伝未詳。1896年(明治29)の番付改名のことがみえ、松林伯円の門人伯一が襲っている。

[延広真治]

5代

(1878―1954)本名関川正太郎。東京・神田生まれ。13歳で2代宝井琴凌(きんりょう)に入門したが、のち改めて真竜斎貞水(しんりゅうさいていすい)に入門。29歳で5代南竜を相続した。『名月若松城』で1953年度(昭和28)芸術祭賞を受賞、晩年を飾った。

[延広真治]

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改訂新版 世界大百科事典 「田辺南竜」の意味・わかりやすい解説

田辺南竜 (たなべなんりゅう)

江戸末期以来の講談師で,2代と5代が著名である。(1)初代 生没年不詳だが軍談大家として知られた。(2)2代(?-1884(明治17)) 軍談,世話講談ともによくし,〈のんのんずいずい〉という口ぐせから,〈のんのんの南竜〉とよばれた。(3)5代(1878-1954・明治11-昭和29) 本名関川正太郎。3代宝井馬琴門から早川貞水の門に転じ,29歳で5代を襲名田辺派再興に尽くした。《義士伝》《太閤記》《名月若松城》などが得意だった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田辺南竜」の解説

田辺南竜(初代) たなべ-なんりゅう

1810-1865 江戸時代後期の講談師。
文化7年生まれ。下総(しもうさ)佐原(千葉県)の農民の子で,通称は作内。一説に越後(えちご)(新潟県)出身ともいう。江戸に出,旗本の家につかえて荻沼作内を名のる。のち初代田辺南鶴(なんかく)にまなび,「甲越軍記」などの軍談を得意とした。慶応元年10月8日,56歳で死去。安政4年6月27日,57歳で死去とする説もある。

田辺南竜(5代) たなべ-なんりゅう

1878-1954 明治-昭和時代の講談師。
明治11年3月9日生まれ。2代宝井琴凌(きんりょう)(4代宝井馬琴)門で琴紅,ついで3代双竜斎貞鏡(早川貞水)門で鏡水を名のる。明治39年5代目を襲名。昭和28年「名月若松城」で芸術祭賞。昭和29年10月8日死去。76歳。東京出身。本名は関川正太郎(まさたろう)。

田辺南竜(2代) たなべ-なんりゅう

1839?-1884 幕末-明治時代の講談師。
天保(てんぽう)10年?生まれ。御家人から初代南竜の弟子となり,南遊をへて2代をつぐ。軍談で合戦の場面をかたる修羅場(しゅらば)を得意とし,口癖の「のんのんずいずい」から,のんのん南竜とよばれた。明治17年12月10日死去。46歳? 本名は松野房次郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「田辺南竜」の解説

田辺 南竜(5代目) (たなべ なんりゅう)

生年月日:1878年3月9日
明治時代-昭和時代の講談師
1954年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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