畑俊六(読み)はたしゅんろく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「畑俊六」の意味・わかりやすい解説

畑俊六
はたしゅんろく
(1879―1962)

陸軍軍人。東京生まれ。陸軍士官学校12期。陸軍大学校卒業。参謀本部員などを経て、作戦関係の要職歴任。1937年(昭和12)大将となる。1938年中支派遣軍司令官として武漢作戦を指揮。1939年より阿部米内(よない)両内閣陸相。1940年近衛(このえ)新体制樹立のため単独辞職して米内内閣を倒した。1941年支那(しな)派遣軍総司令官。1944年元帥。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身刑判決を受ける。1954年(昭和29)病気のため仮出所し1958年赦免。のちに偕行社(かいこうしゃ)会長となる。後年七三一部隊の研究の深化によって、満州(中国東北部)での生物兵器の人体実験に関する司令官としての責任が問われている。戦中・戦後の日誌が公刊されている。

[小田部雄次]

『『巣鴨日記』(1977・行政通信社)』『『続・現代史資料4 畑俊六日誌 1929―1945』(1982・みすず書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「畑俊六」の意味・わかりやすい解説

畑俊六
はたしゅんろく

[生]1879.7.26. 東京
[没]1962.5.10. 東京
元帥。陸軍大将。会津藩士畑能賢の子。陸軍大将畑英太郎実兄。 1900年陸軍士官学校卒業後,野砲第1連隊付となり,日露戦争には同砲兵中尉として出征。 10年陸軍大学卒業後は参謀本部員となり,12~16年までドイツ,スウェーデン駐在。 18年パリ講和会議随員となった。その後,陸大教官,参謀本部作戦班長,参謀本部第4部長,第1部長などを経て,31年中将となり,砲兵監。第 14師団長,航空本部長,台湾軍司令官,教育総監を経て,38年大将に進み,中支那派遣軍司令官として武漢攻略作戦を指揮した。 39年侍従武官長となったが,在任わずかで阿部信行内閣の陸軍大臣。次いで 40年米内内閣に留任したが,国内体制の強化,日独伊三国同盟を強硬進言し,いれられず辞任した。のち軍事参議官,支那派遣軍司令官を経て,44年最後の陸軍元帥となった。 45年4月本土決戦計画により,名古屋以西を管轄する第2総軍司令官となり,原爆投下時広島にいたが無事。戦後,A級戦犯として終身刑宣告。 54年に仮出所して,のち偕行社会長をつとめた。伝記に梅谷芳光『忠鑑畑元帥』 (1964) がある。

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百科事典マイペディア 「畑俊六」の意味・わかりやすい解説

畑俊六【はたしゅんろく】

陸軍軍人。福島県生れ。教育総監,軍事参議官を経て1939年陸軍大臣,1940年中国派遣軍総指揮官等を歴任し,1944年元帥となって再び教育総監。この間パリ平和会議に全権随員として列席。戦後A級戦犯として東京裁判で終身禁錮(きんこ)刑,1954年仮釈放。→米内光政内閣
→関連項目東京裁判

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「畑俊六」の解説

畑俊六 はた-しゅんろく

1879-1962 明治-昭和時代前期の軍人。
明治12年7月26日生まれ。畑英太郎の弟。昭和12年陸軍大将。14年から阿部・米内(よない)内閣の陸相をつとめ,15年近衛新体制樹立のため単独辞任し米内内閣をたおした。19年元帥,20年第二総軍司令官。戦後,A級戦犯として終身刑,29年に仮釈放。昭和37年5月10日死去。82歳。東京出身。陸軍大学校卒。

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世界大百科事典(旧版)内の畑俊六の言及

【軍部】より

…この効果はたちまち発揮され,翌37年1月宇垣一成の組閣に反対する陸軍は,陸相を出さず内閣の成立を阻んだ。さらに40年7月畑俊六陸相は単独辞職によって米内光政内閣を倒壊に追い込んだ。軍部がその希望する政策を実現するために,内閣の生殺与奪の権を握る武器として,この軍部大臣現役武官制が活用され,軍部の政治的地位を保障したのである。…

※「畑俊六」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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