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米内光政内閣 よないみつまさないかく

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百科事典マイペディアの解説

米内光政内閣【よないみつまさないかく】

1940年1月16日〜7月21日。陸軍を中心とする内閣樹立の動きを押え,海軍大将米内光政を首班とする,当時にあっては親英米派の内閣。日独伊三国同盟締結を回避しようとしたが,斎藤隆夫の演説問題,蘭印・仏印問題などで陸軍の反対運動が強まり,新体制運動を契機に総辞職。
→関連項目阿南惟幾軍部大臣現役武官制畑俊六

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

米内光政内閣
よないみつまさないかく

(1940.1.16~1940.7.22 昭和15)
阿部信行(あべのぶゆき)内閣の総辞職後、湯浅倉平(ゆあさくらへい)内大臣の推薦で誕生した海軍大将米内光政を首班とする内閣。内閣は「リベラル」で親英米的であったため、陸軍は反発したが、天皇が畑俊六(はたしゅんろく)陸相に新内閣への協力を確認したため、いちおう納まった。政友会、民政党からは各2名が入閣した。1月にイギリス軍艦が日本郵船会社の浅間丸を臨検した浅間丸事件では、イギリスの妥協を引き出し反英運動を鎮静化させた。しかし陸軍は2月、衆議院での斎藤隆夫(さいとうたかお)議員の反軍演説を機に攻勢に出て、3月親陸軍派議員による聖戦貫徹議員連盟を結成し新体制運動の足掛りを得た。日中戦争処理に関しては、日本の傀儡(かいらい)である汪兆銘(おうちょうめい)政権の樹立や重慶(じゅうけい)の蒋介石(しょうかいせき)政権との和平交渉(「桐工作(きりこうさく)」と称されたが結局失敗した)が陸軍の主導によってなされ、内閣としては無策であった。内閣は戦費調達と陸海軍備大拡張費のため合計103億円もの1940年度予算・臨時軍事費追加予算を成立させ、大増税のための税制改革を行った。5~6月にドイツの電撃戦が成功すると、近衛文麿(このえふみまろ)は新体制運動に乗り出し、7月陸軍は日独同盟締結と新体制運動への善処を要求した。首相がこれを拒否すると、畑陸相は同月16日辞職し、陸軍は後任陸相の推薦を拒否したため、内閣は総辞職し、22日第二次近衛内閣が成立した。[吉見義明]

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