留岡幸助(読み)とめおかこうすけ

精選版 日本国語大辞典 「留岡幸助」の意味・読み・例文・類語

とめおか‐こうすけ【留岡幸助】

  1. 社会事業家。備中国岡山県出身。同志社神学校卒。渡米して刑務制度を研究、帰国後、非行少年感化事業などの社会教化活動に従事。また、日露戦争前後から展開された地方改良運動に中央報徳会幹部として活躍した。元治元~昭和九年(一八六四‐一九三四

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20世紀日本人名事典 「留岡幸助」の解説

留岡 幸助
トメオカ コウスケ

昭和期の社会事業家,牧師,教誨師 北海道家庭学校創立者。



生年
元治1年3月4日(1864年)

没年
昭和9(1934)年2月5日

出生地
備中国高梁(岡山県)

学歴〔年〕
同志社英学校(現・同志社大学)神学科〔明治21年〕卒

経歴
17歳でキリスト教入信。明治21年同志社英学校卒業後、日本組合丹波第一基督教会で伝道。23年牧師の資格をとり、24年北海道の空知集治監教誨師となる。27年渡米し、監獄学、感化事業を学ぶ。29年帰国、日本組合霊南坂基督教会牧師を務め、「基督教新聞」の編集も行う。31年巣鴨監獄の教誨師を兼任。32年警察監獄学校教授となり、監獄改良、死刑廃止を説く。同年巣鴨に不良少年の感化救済のための“家庭学校”(東京家庭学校)を創設。38年「人道」を創刊。大正3年北海道遠軽に分校設立、のちの北海道家庭学校を開設、教護院として農業、林業牧畜などの教育を行った。著書に「感化事業の発達」「基督の教育法」「二宮翁と諸家」などのほか、「留岡幸助著作集」(全5巻)がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「留岡幸助」の意味・わかりやすい解説

留岡幸助
とめおかこうすけ
(1864―1934)

明治から昭和初期の社会事業家。備中(びっちゅう)国(岡山県)に生まれる。18歳でキリスト教の洗礼を受ける。同志社英学校(同志社大学の前身)卒業後、伝道に従事する。1891年(明治24)北海道空知(そらち)監獄の教誨師(きょうかいし)となり、囚人の実態を知り、犯罪の根源を絶つための感化事業、とくに少年教護を志す。そのため、アメリカ留学を経て、1899年東京・巣鴨(すがも)に家庭学校を創立、非行少年の感化に努めた。また、1908年(明治41)には中央慈善協会を創立し幹事となるなど、近代日本の社会事業の基礎をつくった。とくに家庭学校は、その後、北海道などにも分校が設けられ、二男の清男(きよお)(1898―1977)に受け継がれた。

[岡田洋司]

『同志社大学人文科学研究所編『留岡幸助著作集』全5巻(1978~1981・同朋舎出版)』『高瀬善夫著『一路白頭ニ到ル――留岡幸助の生涯』(岩波新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「留岡幸助」の意味・わかりやすい解説

留岡幸助 (とめおかこうすけ)
生没年:1864-1934(元治1-昭和9)

社会事業家。備中高梁出身。神の前には士族も町人も平等と教えるキリスト教に感動し,1882年入信。88年同志社卒業,伝道に従事。91年北海道空知集治監教誨師(きようかいし)として監獄改良にとりくみ,アメリカ留学後,99年巣鴨に家庭学校,1914年北海道紋別郡遠軽村にその分校を設立し,独自の少年感化教育を行った。雑誌《人道》(1905-32)を刊行して社会問題を論じ,内務省嘱託として地方改良事業,報徳思想の普及に努めた。なお次男の清男(1898-1977)は教育学者で,父の後を継いで家庭学校を経営,37年教育科学研究会創立を推進し,《生活教育論》《教育農場五十年》等の著書がある。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「留岡幸助」の解説

留岡幸助 とめおか-こうすけ

1864-1934 明治-昭和時代前期の牧師,社会事業家。
元治(げんじ)元年3月4日生まれ。留岡幸男・清男の父。同志社英学校を卒業後,北海道の空知(そらち)集治監の教誨(きょうかい)師となる。明治32年東京巣鴨に家庭学校を創立,のち北海道北見にも分校をひらき,非行少年の救護につとめる。雑誌「人道」で社会事業への啓蒙(けいもう)につくした。昭和9年2月5日死去。71歳。備中(びっちゅう)(岡山県)出身。本姓は吉田。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「留岡幸助」の意味・わかりやすい解説

留岡幸助
とめおかこうすけ

[生]元治1(1864).3.4. 岡山
[没]1934.2.6. 東京
社会事業家。同志社神学校卒業後,北海道で教誨師となり,日本の行刑制度の改善に努力。 1894年渡米し,欧米行刑制度を研究,99年少年感化院「家庭学校」を設立。『慈善問題』 (1898) は施設管理論や社会事業思想にみるべきものがある。月刊誌『人道』を発行,社会事業の発展に貢献した。 1900年以降は内務省嘱託となり,地方改良運動や社会事業調査会委員として活躍した。

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367日誕生日大事典 「留岡幸助」の解説

留岡 幸助 (とめおか こうすけ)

生年月日:1864年3月4日
昭和時代の社会事業家
1934年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の留岡幸助の言及

【教護院】より

…なお,武蔵野学院には,教護事業職員養成所が付設されている。1883年,池上雪枝が大阪市に神道祈禱所を設け,そこで不良少年の保護に着手したのが,日本における感化院的施設の最初であり,留岡幸助が東京巣鴨に家庭学校(北海道家庭学校の前身)を創設したのは99年である。1890年の感化法により,感化院の設置が府県の義務とされ,府県立感化院が相次いで設けられるとともに,私立施設も増加した。…

【慈善事業】より

…明治初期にはカトリック系の奥浦慈恵院,プロテスタント系の岡山孤児院,仏教系の福田(ふくでん)会育児院などの宗教的背景の強い育児施設が設立されている。産業革命の時期にあたる1899年には,前年に日本の慈善事業の古典といわれる《慈善問題》を著した留岡幸助によって,不良少年を対象とする家庭学校が東京巣鴨に設けられた。このほか日本においても社会問題の発生とともに数多くの慈善施設・団体が設立されるが,これらは前出の中央慈善協会や国庫奨励金・助成金の交付などによって行政的な規制を受けつつ,やがて大正デモクラシーのもとで民間社会事業と呼ばれるものに移行することになるのである。…

【児童福祉】より

…74年の制定以来,1932年まで半世紀以上も続いた〈恤救(じゆつきゆう)規則〉は13歳以下の極貧孤児に対し,1年につき米7斗を支給するという制度を盛り込んでいた。 明治年間,少年保護施設や育児施設が設立され始めたが,代表的な育児施設としては石井十次による岡山孤児院(1887)があり,民間感化院としては,留岡幸助による家庭学校(1899)があった。カトリックに基づく施設としては,横浜慈仁堂(1872),浦上養育院(1874),函館聖保禄女学校(1878)等がある。…

※「留岡幸助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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