世界大百科事典 第2版「地方改良運動」の解説
ちほうかいりょううんどう【地方改良運動】
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日露戦争後、荒廃した地方社会と市町村などの地方団体の改良を目的に行われた官製運動。とくに第二次桂(かつら)太郎内閣のもとで、戊申(ぼしん)詔書の渙発(かんぱつ)(1908年10月13日)を契機に本格化し、内務省などによって推進された。
日本は日露戦争の結果、帝国主義国として列強と並ぶ国際的地位を得たが、戦後の地方社会は、その矛盾のしわ寄せを受けて疲弊、荒廃し、町村財政も破綻(はたん)に瀕(ひん)していた。地方改良運動はそうした状態への対応であり、直接的には国家の基礎としての地方団体(地方自治体)を、帝国主義国家としての日本を支えるに足るものとすることを目ざした。その重点は、町村財政の整備、町村基本財産の造成、優良吏員の養成などに置かれ、具体的には、税の滞納の整理、部落有林野の統合などが行われた。また同時に、町村を支える地方社会の改良にも目が向けられたほか、国民に対するさまざまな教化策も推し進められた。
[岡田洋司]
『石田雄著『近代日本政治構造の研究』(1956・未来社)』▽『宮地正人著『日露戦後政治史の研究』(1973・東京大学出版会)』
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…全校児童が参加するようになり,実施時間が長くなり,かつ体操の授業内容の充実とともに,演技・競技種目が盛りだくさんとなった。さらに日露戦争後の地方改良運動と関連して,学校運動会が校区民衆にとっても子どもを媒介としたレクリエーションの場と化していく。元来は豊凶を占う神事の一つだった〈綱引き〉が,父母ともども参加する種目になったことに示されるように,地域の〈まつり〉の要素を含むようになった。…
… 第2次大戦前,公教育として行われた農村教育は,学校教育では複線型の閉鎖的な学校体系のもとで,その教育内容が農民の必要とする日常の知識・技術と隔絶しており,科学的合理的な思考と訓練が不十分であった。一方,社会教育では体制的危機回避をめざして共同体的秩序保持のための国民教化策が貫かれ,青年団,婦人会,農会,産業組合などを指導して展開された明治期末の地方改良運動や昭和初期の農山漁村経済更生運動にその典型例がみられる。民間では,加藤完治らの日本国民高等学校などの塾風教育が登場して強力な農民錬成が試みられるが,満蒙開拓事業に直結していったように国家主義的性格がいっそう強いものであった。…
…岡山県の三好伊平次らが1902年に組織した備作平民会のように,各地に部落改善団体が設立され,翌年にはその代表者が大阪で大日本同胞融和会を開いて運動の拡大をはかった。このような自主的な部落改善運動が差別の原因を社会の側に見いだし,反体制の方向に進むことを恐れた政府は,日露戦争後,地方改良運動の一環として部落改善政策を進め,上から指導・統制する部落改善団体をつくらせていった。しかし差別の責任を被差別部落の側に押しつけるだけでは被差別部落の人々の支持を得られなくなり,1910年の大逆事件の衝撃もあって,明治末期からは被差別部落外の人々にも差別の反省を促し,被差別部落出身者への同情融和を求める融和政策がとられはじめた。…
…1905年に結成され,12年に中央報徳会と改称した。報徳主義を指導精神とし,〈勤倹力行〉〈分度推譲〉(分度は二宮尊徳の創始した仕法上の用語で分限度合の意)などの諸徳目を道徳と経済の調和というスローガンに組み入れて,資本主義の発展によって動揺した農村共同体秩序を再編するための地方改良運動の推進母体となった。斯民会を行政単位につくり,地方における実践団体とした。…
※「地方改良運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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