満済(読み)マンサイ

デジタル大辞泉 「満済」の意味・読み・例文・類語

まんさい【満済】

[1378~1435]室町前期の真言宗の僧。京都の人。足利義満の猶子となり、醍醐寺座主ざす東寺長者・准三后となった。足利義満・義持義教の3代にわたって尊信が厚く、幕政の中枢に関与し、黒衣の宰相とよばれた。日記「満済准后日記」はこの時代の基本史料。まんぜい。

まんぜい【満済】

まんさい(満済)

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精選版 日本国語大辞典 「満済」の意味・読み・例文・類語

まんさい【満済】

  1. ( 「まんぜい」とも ) 室町初期の真言宗の僧。通称法身院准后。足利義満の猶子。醍醐寺第七四代座主。三宝院二五世門跡。東寺長者。義持・義教の二代にわたり室町幕府内部で重きをなし、黒衣の宰相と呼ばれた。「満済准后日記」がある。永和四=天授四~永享七年(一三七八‐一四三五

まんぜい【満済】

  1. まんさい(満済)

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改訂新版 世界大百科事典 「満済」の意味・わかりやすい解説

満済 (まんさい)
生没年:1378-1435(天授4・永和4-永享7)

室町時代初期の真言宗の僧。〈まんぜい〉ともいい,〈法身院准后(ほつしんいんじゆごう)〉ともよばれる。権大納言藤原師冬の子。将軍足利義満の猶子。醍醐寺報恩院隆源の門に入って得度し,1395年(応永2)三宝院25世門主,ついで醍醐寺74代座主となり,1428年(正長1)4月に准三后の宣旨をうけた。この間,法印,大僧正に叙され,東寺一長者(2度),四天王寺別当に補されている。また1392年(元中9・明徳3),義満と一緒に京都法身院に移住して以降,法身院は満済の在京中の居所となり,正月の評定始を終えた将軍をここで迎える慣習も作られた。1434年に病みがちとなった満済は,醍醐寺座主を門弟の義賢に譲ってここに退き,翌年6月に没した。瘻病と伝える。

 満済は将軍義満に寵用され,賢俊以来,足利将軍と特別の関係にあった醍醐三宝院の門跡となり,また法身院を付されたのも義満の保護によるところが大きい。義満の死後,その袈裟が満済に与えられたことは,二人の親密な関係を象徴するものといえよう。義満を継いだ義持の信頼も厚く,義満のときと同様に所領の給与や保護などが行われているが,このころから満済は護持僧として禳災祈禱に当たるだけでなく,政治外交などの諸問題について将軍から諮問をうけ,幕府の機微参画するようになった。特に1428年正月に義持が後継者を定めずに没すると,満済は管領,諸大名とともに巧妙に青蓮院義円(義教)を擁立し,早急に政局を安定させた。こうした関係もあってか将軍義教の信頼は絶大で,後花園天皇への皇位継承問題,一時中断されていた明との国交回復,関東公方との紛争,九州の争乱,諸大名・奉公衆の内紛処理など,政治・外交の諸問題は大小となく満済に諮問し,管領,諸大名の意向を問い,ときには将軍の内意を示してこれに対する諸大名の意見を徴する役割を期待されたことさえあった。ともすれば正道を理想として専制への道を歩もうとする将軍と,天下無為を眼目として大名連合による幕政運営をめざす諸大名の,相互の意志を疎通する役割を満済が果たしていたといえよう。万事に峻厳であった将軍義教の治世には,その不快をこうむって蟄居する公家,武士が少なくなかっただけに,満済に対する諸人の期待は大きかった。〈黒衣の宰相〉といわれるゆえんであるが,政治に関与しても私利を追わず私党を作らず,冷静でありながら人情に厚い彼の姿勢は,後崇光院の〈天下の義者〉(《看聞日記》)という評言に最もよく表されている。また彼の記した《満済准后日記》は当時を知るための重要な史料である。
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朝日日本歴史人物事典 「満済」の解説

満済

没年:永享7.6.13(1435.7.8)
生年:永和4/天授4(1378)
室町時代の僧侶。大納言二条師冬の子。母は聖護院坊官法印源意の娘。母が足利義満の正室日野業子に伺候していた縁で義満の猶子となり,醍醐寺報恩院隆源の門に入り得度,応永2(1395)年12月わずか18歳の若さで醍醐寺座主,三宝院門跡となった。同院門跡は賢俊,光済と歴代将軍の政治顧問格となる伝統があったうえ,自身の資質によって義満に寵され,同6年法印,同16年大僧正に上り,正長1(1428)年には准三后を宣下された。この間応永16年7月には東寺一長者,寺務を兼ね,また義満,義持,義教と3代の室町殿の護持僧として文字通り宗教界に君臨した。特に義持の信任厚く,応永30年前後から関東公方足利持氏が幕府と対立すると,有力守護らで構成する宿老会議の座長役に指定され,重臣らの見解を忠実に将軍に取り次ぐ周旋役として見事な役割を果たした。伏見宮貞成にも「天下の義者なり」と称えられている。世に「黒衣の宰相」ともいわれるが,自身は周旋役に徹して軍事に容喙することは決してなく,宿老らの信任も抜群で幕政は安定した。満済の没後,将軍義教が専制化,暴走し,嘉吉の変に至ったことを思えば,その優れた調停者ぶりが知られよう。『満済准后日記』は当該政治史の一級史料。<参考文献>辻善之助『日本仏教史』中世3,今谷明『室町幕府解体過程の研究』

(今谷明)

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百科事典マイペディア 「満済」の意味・わかりやすい解説

満済【まんさい】

室町時代の僧。権大納言(ごんだいなごん)藤原師冬(もろふゆ)の子。将軍足利義満(よしみつ)の猶子(ゆうし)となり,醍醐(だいご)寺三宝(さんぼう)院門主,醍醐寺座主(ざす)となり,1428年准三后(じゅさんごう)。義満・義持・義教(よしのり)の護持僧,幕政の最高顧問として〈黒衣(こくえ)の宰相〉と称された。《満済准后日記》は室町時代政治・文化史の重要史料。
→関連項目畠山満家

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「満済」の意味・わかりやすい解説

満済
まんさい

[生]天授4=永和4(1378).2. 京都
[没]永享7(1435).6.13. 京都
室町時代初期の真言宗の僧。権大納言今小路師冬の子。足利義満の猶子 (ゆうし) となり,醍醐寺の実済,隆源の法を継ぎ三宝院門跡となった。応永2 (1395) 年醍醐寺第 74代座主 (ざす) ,同 16年東寺一長者に補せられ,寺務宣下 (せんげ) を受けた。正長1 (1428) 年准三宮,翌年四天王寺検校 (けんぎょう) に補せられ,永享6 (34) 年醍醐寺座主を門弟義賢に譲った。満済は義持,義教2代にわたり,最高の政治顧問として幕政を補佐し,大小の事につき諮問を受け,「黒衣の宰相」といわれた。日記『満済准后日記』は当時の政治に関する貴重な史料である。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「満済」の解説

満済 まんさい

1378-1435 室町時代の僧。
永和4=天授4年2月生まれ。権(ごんの)大納言今小路師冬(もろふゆ)の子。足利義満の猶子。真言宗醍醐寺(だいごじ)報恩院の隆源について得度。応永2年三宝院門跡(もんぜき),醍醐寺座主(ざす)となる。のち東寺長者,大僧正,准三后(じゅさんごう)。将軍足利義満,義持(よしもち),義教(よしのり)の護持僧として信頼あつく,幕政にもふかく関与。法身院(ほっしんいん)准后,将軍門跡,黒衣の宰相とよばれた。「満済准后日記」は当時の政情を知る重要史料。永享7年6月13日死去。58歳。法名は「まんぜい」ともよむ。

満済 まんぜい

まんさい

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旺文社日本史事典 三訂版 「満済」の解説

満済
まんさい

1378〜1435
室町中期の真言宗の僧
醍醐 (だいご) 寺座主・三宝院門跡。足利義満の養子となり,幕府の最高顧問として政治に参画,黒衣の宰相と呼ばれた。その日記『満済准后 (じゆごう) 日記』は当時の史料として重要。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「満済」の意味・わかりやすい解説

満済
まんぜい

満済准后

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世界大百科事典(旧版)内の満済の言及

【満済】より

…この間,法印,大僧正に叙され,東寺一長者(2度),四天王寺別当に補されている。また1392年(元中9∥明徳3),義満と一緒に京都法身院に移住して以降,法身院は満済の在京中の居所となり,正月の評定始を終えた将軍をここで迎える慣習も作られた。1434年に病みがちとなった満済は,醍醐寺座主を門弟の義賢に譲ってここに退き,翌年6月に没した。…

【満済准后日記】より

…醍醐寺座主満済の日記で,《法身院准后日記》ともいわれる。応永18年(1411)正月および同20年から同29年までと,応永30年から永享7年(1435)までの自筆本が現存し,多少の闕失はあるが25年間にわたってほぼ首尾一貫している。…

※「満済」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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