室町時代初期の真言宗の僧。〈まんぜい〉ともいい,〈法身院准后(ほつしんいんじゆごう)〉ともよばれる。権大納言藤原師冬の子。将軍足利義満の猶子。醍醐寺報恩院隆源の門に入って得度し,1395年(応永2)三宝院25世門主,ついで醍醐寺74代座主となり,1428年(正長1)4月に准三后の宣旨をうけた。この間,法印,大僧正に叙され,東寺一長者(2度),四天王寺別当に補されている。また1392年(元中9・明徳3),義満と一緒に京都法身院に移住して以降,法身院は満済の在京中の居所となり,正月の評定始を終えた将軍をここで迎える慣習も作られた。1434年に病みがちとなった満済は,醍醐寺座主を門弟の義賢に譲ってここに退き,翌年6月に没した。瘻病と伝える。
満済は将軍義満に寵用され,賢俊以来,足利将軍と特別の関係にあった醍醐三宝院の門跡となり,また法身院を付されたのも義満の保護によるところが大きい。義満の死後,その袈裟が満済に与えられたことは,二人の親密な関係を象徴するものといえよう。義満を継いだ義持の信頼も厚く,義満のときと同様に所領の給与や保護などが行われているが,このころから満済は護持僧として禳災祈禱に当たるだけでなく,政治・外交などの諸問題について将軍から諮問をうけ,幕府の機微に参画するようになった。特に1428年正月に義持が後継者を定めずに没すると,満済は管領,諸大名とともに巧妙に青蓮院義円(義教)を擁立し,早急に政局を安定させた。こうした関係もあってか将軍義教の信頼は絶大で,後花園天皇への皇位継承問題,一時中断されていた明との国交回復,関東公方との紛争,九州の争乱,諸大名・奉公衆の内紛処理など,政治・外交の諸問題は大小となく満済に諮問し,管領,諸大名の意向を問い,ときには将軍の内意を示してこれに対する諸大名の意見を徴する役割を期待されたことさえあった。ともすれば正道を理想として専制への道を歩もうとする将軍と,天下無為を眼目として大名連合による幕政運営をめざす諸大名の,相互の意志を疎通する役割を満済が果たしていたといえよう。万事に峻厳であった将軍義教の治世には,その不快をこうむって蟄居する公家,武士が少なくなかっただけに,満済に対する諸人の期待は大きかった。〈黒衣の宰相〉といわれるゆえんであるが,政治に関与しても私利を追わず私党を作らず,冷静でありながら人情に厚い彼の姿勢は,後崇光院の〈天下の義者〉(《看聞日記》)という評言に最もよく表されている。また彼の記した《満済准后日記》は当時を知るための重要な史料である。
執筆者:福田 豊彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(今谷明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…この間,法印,大僧正に叙され,東寺一長者(2度),四天王寺別当に補されている。また1392年(元中9∥明徳3),義満と一緒に京都法身院に移住して以降,法身院は満済の在京中の居所となり,正月の評定始を終えた将軍をここで迎える慣習も作られた。1434年に病みがちとなった満済は,醍醐寺座主を門弟の義賢に譲ってここに退き,翌年6月に没した。…
…醍醐寺座主満済の日記で,《法身院准后日記》ともいわれる。応永18年(1411)正月および同20年から同29年までと,応永30年から永享7年(1435)までの自筆本が現存し,多少の闕失はあるが25年間にわたってほぼ首尾一貫している。…
※「満済」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加