日本大百科全書(ニッポニカ) 「白石直治」の意味・わかりやすい解説
白石直治
しらいしなおじ
(1857―1919)
土木工学者。安政(あんせい)4年、土佐国(高知県)の藩儒久家忘斎(きゅうけぼうさい)(種平(たねひら))の長子に生まれる。14歳で白石栄の養嗣子(ようしし)となる。叔父中島信行(のぶゆき)の勤王論に刺激されてひそかに長州(山口県)に走ったこともある。明治になって、東京で後藤象二郎家に寄寓(きぐう)し、1881年(明治14)東京大学理学部土木工学科を卒業。農商務省、東京府勤務を経て、1883年命ぜられてアメリカ、ドイツに留学。1887年帰国、ただちに帝国大学工科大学教授。1890年退官し、関西鉄道会社社長になるが、1898年これを辞し、日本初の鉄筋コンクリートによる神戸和田岬の大倉庫(1906)や東洋一の長崎のドライ・ドック(1904)、若松築港などの大工事建設にあたった。さらに日韓瓦斯(ガス)電気(後の京城電気)、日本窒素肥料(現、チッソ)、猪苗代(いなわしろ)水力(東京電燈会社を経て東京電力の一部となる)などの会社経営に携わった。1912年(明治45)政友会代議士となって活躍した。1919年(大正8)土木学会会長となるが、同年2月死去。直治南岳と号し、詩にも親しんだ。
[井原 聰]