江戸中期の俳人。姓は加舎(かや),名は吉春,通称は五郎吉。父の祖母方の姓をとり,平田忠次郎と名乗ったときもある。江戸深川の人。生年を1735年(享保20)とする説もある。信濃国上田藩士加舎吉享の次男。5歳で母に死別,13歳で家出したとも,また上野国館林の禅寺で修行したともいうが,不明。俳諧ははじめ舎来と号して青峨に学び,ついで烏明に入門して昨烏(さくう)と号し,その師の鳥酔にも学んだ。1769年(明和6)8月,信州にあって処女選集《おもかげ集》を編纂。当時は白尾坊昨烏と号していたが,79年(安永8)の斗墨編《春興帖》に初めて白雄の号が見える。諸国を旅し,関東から信州にかけて多くの門弟を育て,80年には江戸日本橋に春秋庵を開き,《春秋稿》初編~第5編を次々に刊行して俳壇に一勢力を築いた。師鳥酔の説をつぎ,俗を離れて自然の雅趣を重んじることを唱えた。作品は繊細な詩情をたたえるが,虚飾を排するあまり平板に終わったものもある。俳論に《加佐里那止(かざりなし)》《寂栞(さびしおり)》,句集に《しら雄句集》がある。〈海はれて春雨けぶる林かな〉(《しら雄句集》)。
執筆者:山下 一海
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江戸中期の俳人。姓は加舎(かや)。本名吉春。通称五郎吉。初号舎来(しゃらい)、ついで昨烏(さくう)と名のった。別号白尾坊。江戸深川の生まれ。1735年(享保20)を生年とする説もある。信州(長野県)上田藩士の次男。5歳で生母に死別し、13歳のとき家出し、上州館林(たてばやし)で禅寺に修行したともいうが、確かなことはわからない。俳諧(はいかい)は初め青峨(せいが)に学び、ついで烏明(うめい)に入門、さらに烏明の師鳥酔(ちょうすい)にも学んだ。諸国を旅したが、とくに信州へはしばしば足を運んで、多くの門弟を育てた。1780年(安永9)江戸日本橋に春秋庵(あん)を開き、俳諧集『春秋稿』を続刊、俳壇に一勢力を築いた。師鳥酔の説を継ぎ、俗な世界を離れて自然な趣(おもむき)を重んじることを主張した。寛政(かんせい)3年9月13日没。俳論は1771年(明和8)京都の仮寓(かぐう)で書いた『加佐里那止(かざりなし)』がよく知られ、ほかに『寂栞(さびしおり)』(1812)がある。作風は繊細で高雅。編著に『面影集』(1769)、『文車(ふぐるま)』(1772)などがある。
人恋し灯(ひ)ともしごろをさくらちる
[山下一海]
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