出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
中国、河南(かなん/ホーナン)省洛陽(らくよう/ルオヤン)市の東にある寺で、中国初建の寺とされる。67年(永平10)後漢(ごかん)明帝の代、中天竺(てんじく)(インド)の摂摩騰(しょうまとう)、竺法蘭(じくほうらん)が経巻と釈迦(しゃか)像を白馬に乗せて洛陽へ入り、寺を建立し『四十二章経』を訳したと伝え、それが中国仏教の初伝という。寺名はその白馬にちなむ。梁(りょう)の宝唱(ほうしょう)の『名僧伝』には蘭台寺と記され、僧名も諸本で異なる。また、後漢の明帝が金人(きんじん)(仏像)を感夢し使者を大月氏(だいげっし)国へ派遣し仏法が伝来したという伝説もあり、白馬寺伝説は複雑であるが、この寺が西晋(せいしん)代(265~316)に存在したことは確かで、竺法護(じくほうご)が286年(大康7)『正法華経(しょうほけきょう)』10巻を、289年には『文殊師利浄律経(もんじゅしりじょうりつきょう)』『魔逆経(まぎゃくきょう)』などを訳出している。東晋の支遁(しとん)、北魏(ほくぎ)の曇摩流支(どんまるし)、仏陀扇多(ぶっだせんた)らが住し、唐の則天武后(そくてんぶこう)が堂宇を修理した。当寺の南東には東白馬寺(斉雲寺(せいうんじ))があり十三層塔を残す。これは後唐(こうとう)の荘宗(そうそう)(在位923~925)が9層の塔を建立、1175年(金、大定15)に再建されたものという。
[里道徳雄]
中国,漢魏洛陽城の西門外,現在の洛陽市東12kmにある仏寺。後漢明帝が金人を夢にみ,使いを遣わして仏法を天竺に求めさせ,天竺より招来した仏僧摂摩騰,竺法蘭のために,67年(永平10)に創建したと伝えられる。寺名は外国仏寺名によったとも,仏典を白馬にのせてきたからともいう。明帝創建は歴史事実かどうか疑わしいが,後世,仏教流伝による中国最初の仏寺と信じられ,歴代の重修を経,近年も大修築が加えられて観光の名所となっている。
執筆者:愛宕 元
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…院は障壁で包まれた一部の意で,寺の一部分を指したものである。迦葉摩騰(かしようまとう)が白馬に経典を積んで来って初めて漢に仏典をもたらし,外客接待施設の鴻臚寺に入り,後に仏寺を建立して白馬寺と呼ばれたという説話がある。仏陀をまつるところを指す浮屠祠(ふとし)の名は後漢代から,学舎の意の精舎も魏・晋代(3世紀)から用いられた。…
…説話に尾ひれがつくのは,当然のことである。明帝が西方に派する使者のうちに前漢の張騫(ちようけん)の名が加わり,インド僧の名が迦葉摩騰・竺法蘭という2人の三蔵法師となり,2人が白馬に仏像と経典をのせてきたこと,これが中国最初の仏寺,洛陽白馬寺の由来となること,《四十二章経》が後漢の宮廷に蔵せられて長く世に知られなかったことなど,時代が下るにしたがって伝説はしだいに詳細となり,まことしやかになる。そこにかえって,後に発展する中国仏教の本質についての重要なインデックスが含まれるわけだ。…
…後漢では後25年(建武1)再び雒陽が国都に定められ,南北9里東西6里の城郭規模を有したので九六城と称せられた。中国最初の仏寺といわれる白馬寺は,後漢の初めに九六城の西郊に建立された。三国の魏,西晋もともに洛陽を国都とした。…
※「白馬寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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